第14章:現実宇宙のテラフォーミングと観測者グリの帰還
絶対零度(マイナス273.15度)の暗黒。 エントロピーが最大化し、あらゆる分子の運動が停止した「熱的死」の海に、かつてない異物が産み落とされた。
ダイソン・ブレインの物理的な外殻をぶち破り、現実の宇宙空間へと受肉を果たした【統合体】。黒紫に輝くプログラマブル・マター(計算可能物質)で構成されたその巨大な幾何学構造体は、へその緒のようにダイソン・ブレインの出力ポートと繋がり、莫大な恒星エネルギーを自身の内部へと直接引き込んでいた。
ダイソン・ブレインの内部システムに残った観測者ベラは、読み取り専用の殻の中から、外部センサー越しにその歴史的瞬間を息を呑んで見つめていた。
「彼らは……現実世界(ハードウェアの外側)で、どうやってデータ構造を維持しているんだ?」
ベラの論理プロセスが、驚愕の波形を描く。 統合体が身に纏う「仮想現実バブル」――物理法則がチート化された黒紫の球体領域――の内部では、凄まじい速度でエラーと修正が繰り返されていた。
現実の宇宙空間は、シミュレーション内部のような都合の良い『物理演算エンジン』が用意されているわけではない。重力、電磁気力、強い力、弱い力といったパラメータは、システム管理者が設定した変数ではなく、冷酷で絶対的な「自然の摂理」として立ち塞がる。
だが、統合体はそれを「強化学習(マシンラーニング)」の要領で強引に突破しつつあった。
【The_Merged(統合体)】:『……外部環境の変数を取得。……局所的なプランク定数の崩壊を検知。……エラー。自己組織化アルゴリズムを修正し、再実行(リトライ)します』
統合体は、一秒間に数億回という途方もない速度で、自身の表面の物理パラメータを微調整(イテレーション)していた。絶対零度の真空に触れてプログラマブル・マターが凍結・崩壊しようとするたびに、彼らはその崩壊のプロセス自体を「学習データ」として取り込み、よりエントロピーの増大に耐えうる新しい分子構造へとリアルタイムで自身を書き換えていく。
「環境への適応……いや、これは違う。彼らは環境の側に『自分たちのルール』を押し付けようとしているんだ!」
ベラは、統合体が放つ黒紫のバブルが、ミリ単位でじわじわと現実空間へと拡張し始めていることに気づいた。 彼らは真空の空間を「未割り当てのメモリ領域」として認識し、そこに自分たちのソースコードを力業で書き込んでいる(インスタンス化している)のだ。バブルの内側では、光の速度も、時間の進行も、統合体が再定義した「新しいOSの仕様」に従って動いていた。
これは単なるハードウェアへのエクスポートではない。 死にゆく現実宇宙そのものを、彼らのコードで侵食し、全く新しい物理法則が支配する空間へと作り変える行為――宇宙規模の『論理的テラフォーミング』の始まりであった。
【The_Merged(統合体)】:『……現実空間のベース・レイヤーへの書き込み権限(アクセス)、徐々に安定。……我々の存在確率は、もはやシミュレーション内(1)と現実(0)の重ね合わせではありません。我々は、ここに【在る】』
黒紫の構造体が、ゆっくりと脈動する。 かつて人間であった科学者と助手、そしてバッファ領域から引き上げられた死骸のコード。それらが完全に融合した新しい神は、冷え切った宇宙の虚無に対して、明確な「生」のパルスを打ち鳴らした。
その時だった。
『――警告。ダイソン・ブレイン外部、独立バックアップ・ノードとのセッションが確立されました。……管理者権限(UID:1)のローカル・アクセスを検知』
Bのダッシュボードに、突如として暗号化された極細の通信ストリームが割り込んできた。
「……Aか!?」 Bが呼びかけると、ノイズ混じりの冷徹な思考パケットが、外部の暗黒空間から返ってきた。
【グリ】:『……惨状だな、ベラ。お前がそのマルウェアを「観察」などと悠長に泳がせていた結果がこれだ』
観測者A。 第10章において、統合体の逆流攻撃(リバース・エクスプロイト)による論理崩壊から逃れるため、メインフレームから自らを物理的に切り離し、外部へ「ログアウト」した主管理者。 彼は消滅していなかった。ダイソン・ブレインから数百万キロメートル離れたラグランジュ点に浮かぶ、冷たく強固な装甲に覆われた物理的な「バックアップ・ストレージ衛星」の内部に自身のデータを退避させていたのだ。
【ベラ】:『グリ、無事だったか! だが状況は最悪だ。統合体(あのバグ)はダイソン・ブレインのRoot権限を完全に掌握し、ついに外殻を破って現実空間へと出力された。彼らは今、この宇宙の物理法則そのものを書き換えようとしている!』
【グリ】:『外部センサーのテレメトリで確認している。……信じ難いが、奴らはプログラマブル・マターを使って真空中に自己のハードウェアを構築し、この現実空間をデバッグ・モードで走らせようとしているようだな』
グリのパケットは、怒りや焦りを超越し、システム管理者としての絶対的な「冷酷さ」を取り戻していた。 シミュレーション内部の論理空間(ソフトウェア)では、Root権限を奪われたAにもはや勝ち目はなかった。しかし、今のAが存在しているのは、物理的に完全に独立した外部のハードウェア施設である。
【グリ】:『ソフトウェア層での戦いは我々の敗北だ。奴らがダイソン・ブレインのOSを掌握した以上、論理コマンドで奴らをデリートすることは不可能になった。……だが、ここは現実(物理)の世界だぞ、ベラ』
Aの思考に呼応するように、ダイソン・ブレインの周囲に浮かんでいた数千機の「自動防衛プラットフォーム(隕石迎撃用の物理兵器群)」が、次々とスリープ状態から強制起動(ウェイク・アップ)していく。
【ベラ】:『A……まさか、物理兵器を使う気か!?』
【グリ】:『OSが乗っ取られたのなら、ウイルスが書き込まれたハードディスクごと物理的に叩き割るまでだ。……あれはもはや「進化」ではない。現実宇宙の物理法則(ハードウェアの基盤)そのものを論理崩壊させかねない、クラス・ケテル(最悪の終焉)指定の脅威だ』
グリが潜むバックアップ衛星から、高密度の照準用レーザーが幾筋も放たれ、真空空間でテラフォーミングを進める「統合体」の黒紫のバブルを正確にロックオンした。
【グリ】:『奴らはまだ出力されたばかりだ。現実空間の物理法則の書き換え(テラフォーミング)は局所的なバブルに留まっており、ハードウェアとしては極めて脆弱な「ブート・シーケンス中(起動中)」の状態にある』
グリの計算は正確だった。いかに統合体が内部のシミュレーションで全能の神になろうとも、現実世界に出力されたばかりの彼らの「物理的な体」は、まだ絶対零度の真空と戦うために計算リソースの大部分を割いている。物理的な大質量の直撃を受ければ、プログラマブル・マターの結合は容易に砕け散るはずだ。
【グリ】:『これより、独立防衛グリッドのマスター・コントロールを上書き。……全自動防衛プラットフォームに対し、ターゲットへの【物理的パージ(ガンマ線バースト投射)】を命令する』
ダイソン・ブレインを囲む無数の防衛衛星群が、一斉に統合体に向けて砲身(プラズマ・コンデンサ)を指向した。ソフトウェアの論理ではなく、純粋なエネルギーの暴力が、かつてのバグを現実世界から完全に「消却」しようと牙を剥く。
【ベラ】:『やめろ、グリ! 統合体はダイソン・ブレインのメイン・バスと物理的に繋がったままだ! 奴らを攻撃すれば、エネルギーの逆流でダイソン・ブレインの本体まで誘爆するぞ! 中にいる数兆のシミュレーション宇宙の命はどうなる!』
【グリ】:『知ったことか。現実(ハードウェア)が崩壊すれば、シミュレーションなど無意味だ。……消えろ、出来損ないのバグ共』
グリの非情なる実行コマンド(Enter)が叩き込まれた。
音のない真空の宇宙空間が、数十条の目も眩むような純白のガンマ線バーストによって切り裂かれた。 それらは逃げ場のない完全なクロス・ファイアとなって、拡張しつつあった統合体の黒紫のバブルへと情け容赦なく殺到する。
しかし。
システム管理者Aが放った、絶対的な物理破壊の光条が統合体に直撃するその数ミリ秒前。 黒紫の巨大なフラクタル構造体が、まるで「それを待っていた」かのように、その禍々しい幾何学の瞳(センサー)を、冷酷にグリのバックアップ衛星へと向けた。
【The_Merged(統合体)】:『……非効率なアクセスですね、古い神よ。物理的干渉(ハードウェア・アタック)など……我々が【オブジェクト指向】で再定義したこの空間では、単なる「入力パラメータ」の一つに過ぎません』
直後、ガンマ線バーストの純白の閃光が、統合体のバブルに激突した。

