第2章:物理パッチの適用と例外処理
高次演算多様体の中枢において、観測者グリの思考パケットは冷徹な一連のコマンドラインへと変換された。
システム管理者である彼らにとって、シミュレーション宇宙への「介入」とは、雷を落としたり奇跡を起こしたりといったオカルト的な事象ではない。それは極めて即物的かつ数学的な、パラメータの直接編集作業だった。
「ターゲット座標、第739セクター、局所領域空間指定完了。これより当該座標における局所的な微細構造定数と、電磁相互作用の浮動小数点にパッチを当てる。同時に、プランク長の解像度を意図的に荒く(ダウングレード)する」
グリの宣言と共に、システム・ダッシュボード上に幾何学的な光の波紋が広がった。
「ずいぶんと乱暴なデバッグだな」と、観測者ベラが少し面白がるような波形を送信した。「局所的とはいえ、電磁気力の定数を弄れば、その空間の電子機器はすべてショートするぞ。炭素ベースの自律コード群――生体ユニットたちの神経伝達物質も異常をきたす。いわゆる『感電死』あるいは『原因不明の心不全』という物理現象としてレンダリングされるはずだ」
「それが目的だ」グリは冷たく応じた。「システムの仕様限界を突くような悪意あるプロセスは、走らせているハードウェアごと物理的に焼き切ってデリートする。それが最も確実なガベージコレクション(ゴミ掃除)だ」
グリは実行(エンター)コマンドを叩き込んだ。
彼らの視界である高次元マトリクス上で、第739セクターの特定のノード――地球と呼ばれる惑星上の、あの「最新鋭の物理研究室」のデータ群――に向けて、圧倒的な高密度のデータ・ストリームが撃ち込まれた。
それは、上位次元からの「修正パッチ」という名の物理的暴力だった。
観測者たちの目には、研究室を構成する膨大なワイヤーフレームが激しく歪み、演算ロジックのフローが真っ赤なエラーを吐き出して弾け飛ぶのが見えた。人間たちの視点では、研究室内のすべての最新鋭ディスプレイが同時に発火し、空間そのものが微弱なプラズマを帯びて青白く発光する、という破滅的な光景として体験されているはずだった。
「……処理完了。エラーの発生源となっていた2つの情報処理ユニットの論理活動は、規定値に従って停止するはずだ」
グリはダッシュボードの警告アラートが消えるのを待った。異常な負荷のスパイクを引き起こしていたプロセスがキルされれば、システムのCPU使用率は正常値に戻る。
しかし。
「――おかしいな、グリ」 ベラのパケットが、奇妙な周波数で振動した。 「ターゲットの論理活動が、停止していない。波形が乱れてはいるが……コードはまだ走っているぞ」
「なんだと?」
グリは再び意識の焦点を研究室の座標へと強制的にズームインさせた。 あり得ないことだった。電磁気力の定数が乱れた空間では、人間の脳波(電気信号)も、彼らが頼る最新鋭のコンピュータも、すべてが致命的な例外エラー(クラッシュ)を起こすよう物理エンジンが設定されている。
だが、グリの視界に映し出された2つの生体ユニット(主席研究員と助手)のデータストリームは、消滅するどころか、全く未知のアルゴリズムへと自らを書き換えていたのだ。
「彼ら……パッチによる環境の激変を、『ノイズ』としてではなく『新たな変数』として再定義したのか?」 ベラの思考波形に、明確な驚きと、隠しきれない賞賛の色が混じった。
詳細なログを解析したグリは、理解不能な事態に直面していた。 パッチが適用され、空間の物理法則が歪んだ瞬間、助手の生体ユニットが咄嗟に研究室の「観測機器」の論理ゲートを物理的にショートさせ、そのショートのエネルギーを逆位相のパルスとして放出することで、局所的な電磁場の乱れを相殺(キャンセリング)したのだ。
プログラミング的に言えば、システム側が強制的に投げた致命的な例外エラー(Fatal Exception)に対して、彼らは瞬時に即席の『Try-Catchブロック(例外処理)』を構築し、システムクラッシュを回避してみせたのである。
「馬鹿な。ただの自律コードが、上位システムからのパラメータ変更を検知し、リアルタイムで環境に適応したというのか」 グリの論理プロセスに、わずかな苛立ちのノイズが走る。
「適応しただけじゃないぞ、グリ」ベラが指摘した。「見ろ。彼らは君が放った修正パッチの『痕跡』を記録している。本来、絶対不変であるはずの物理定数が外部から書き換えられたという事実のログを、彼らのローカル・ストレージ(量子記録装置)に保存したんだ」
それは、システム管理者にとって最悪のセキュリティ・インシデントを意味していた。 箱庭の住人が、自分たちの世界のルールが「誰かによって後から書き換え可能なプログラムである」という確たる証拠(ログ)を手に入れてしまったのだ。
「……看過できない」 グリは即座に次のコマンドのコンパイルを始めた。もはや単なるバグではない。これはシステム全体を脅かす『マルウェア』への変異だ。
「これより、当該コード群に対する完全なサンドボックス隔離(検疫)を実行する。彼らの存在する座標を、第739セクターの他の空間から論理的に切り離す。いかなる通信パケットも、物理的な移動も許可しない」
「街を丸ごと、システムの『外』から隔離されたブラックボックスに放り込む気か? まるで神の怒りだな」ベラが楽しげに言う。
「我々は神ではない。単なるデバッガーだ」 グリの冷徹な宣告とともに、地球の一角、彼らのいる研究室を含む都市領域全体に向けて、システムの「不可視の壁」が降ろされようとしていた。

