(第八部:松尾芭蕉のデジタル万歩計とメタボリックおくのほそ道)
第一章:江戸時代のヘルスケア・ガジェット
「佐藤くん! やかんの火を止めろ! この液晶画面に浮かび上がるデジタルの数字こそが、江戸時代のテクノロジーの結晶であり、松尾芭蕉の真の目的を証明しているのだ!」
二月の身を切るような寒風が吹きすさぶ、茨城県・霞ヶ浦のほとりに建つ大学。 第三歴史学研究室に陣取る今野教授の今日の足元は、「右足が雪山用のかんじき、左足が赤と青のボウリングシューズ」という、あらゆる地形への適応と不適合を同時に体現したスタイルだった。 彼は五十円で買ってきたという、プラスチック製の小さな四角い機械(どう見ても現代のデジタル万歩計)を誇らしげに掲げている。
「……教授。それ、どう見てもホームセンターのレジ横で売ってる数百円の万歩計ですよね。液晶画面にデジタル文字で『352歩』ってクッキリ表示されてますよ」 助手の佐藤は、特売のちくわをかじりながら、限界突破した冷ややかな視線を送った。
「甘い! 佐藤くん、君は江戸時代の『からくり技術』をまったく理解していない!」 今野教授はバシッと机を叩き、万歩計を掲げた。 「いいか? 平賀源内を待つまでもなく、江戸の時計師たちの技術は世界最高峰だった! この液晶に見えるものは、極小の黒い砂利を静電気で配列させる『超小型からくり砂文字盤』なのだ! そしてこの万歩計こそ、松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅路で愛用していた、歩数管理デバイスである!」
「松尾芭蕉が静電気で動く万歩計を見ながら旅してたんですか。風流の欠片もないですね」
「大ありだ! そもそも『おくのほそ道』は文学紀行ではない! 弟子である曾良(そら)と共に挑んだ、中高年のための『奥州・過酷な有酸素運動(カーディオ・トレーニング)の記録』なのだ!」
第二章:五・七・五の呼吸法
「さらにだ!」 今野教授は得意げに黒板の前に立ち、チョークを握った。
「俳句の『五・七・五』という定型リズム。あれはなぜ生まれたのか? 答えは簡単だ!」
「……もう聞かなくても分かりますけど。ウォーキングの呼吸法とか言い出すんでしょ」
「その通りだ!!」 教授はチョークをへし折る勢いで黒板を叩いた。 「『スッ・スッ・ハア(五)、スッ・スッ・ハア・ハア(七)、スッ・スッ・ハア(五)』! つまり俳句とは、長距離ウォーキングにおいて最も効率的に酸素を取り込むための、江戸時代特有の『有酸素・腹式呼吸メソッド』だったのだ! 芭蕉は景色を見て感動していたのではない。歩きすぎて息が上がっていただけだ!」
「全国の俳人協会から訴えられますよ。風流の『ふ』の字もない。ただの息切れじゃないですか」
第三章:霞ヶ浦・奥州フィットネス実証実験
「よし、佐藤くん! 学会発表に向けて、実証実験だ! 芭蕉の歩数管理と呼吸法がいかにして健康寿命を延ばしたのか、我々の手で再現するぞ!」
一時間後。 佐藤はまたしても、極寒の霞ヶ浦のほとり(大学の中庭)に引きずり出されていた。今回は、頭に編み笠(の代わりに、なぜかザル)を被らされ、背中には大量の古本が詰め込まれた登山用リュックを背負わされている。
「教授……なんで僕が弟子の曾良役なんですか……しかもこのリュック、岩でも入ってるんですか……」 「文句を言うな! 君は今から、芭蕉のパーソナルトレーナー兼、荷物持ちの曾良だ! そして私が、健康志向のカリスマ・松尾芭蕉である!」
見ると、今野教授はボロボロの浴衣の上にダウンジャケットを羽織り、右足のかんじきと左足のボウリングシューズで、ツルツル滑りながらも足踏みをしていた。手にはあのデジタル万歩計が握られている。
「さあ曾良よ! 目指すは奥州・平泉(という設定の生協食堂)だ! そーれ、五・七・五の呼吸で歩くぞ! 『夏草や(スッスッハア)、兵どもが(スッスッハアハア)、夢の跡(スッスッハア)』!」 「寒い! 恥ずかしい! そしてかんじきとボウリングシューズのせいで、教授の歩幅が全然合ってない!」
中庭で、ザルを被った重装備の若者(佐藤)の前を、かんじきとボウリングシューズのダウンジャケット男(教授)が「スッスッハア!」と奇妙な呼吸音を立てながら練り歩くという、完全に不審者の徘徊イベントが開催されていた。 通りすがりの学生たちは、もはや彼らを見ることすら眼球のカロリーの無駄だと判断し、完全に透明人間扱いして通り過ぎていく。
第四章:エリートの健康診断
「……君たち。有酸素運動の前に、脳内の酸素欠乏症を疑った方がいいんじゃないかな?」
その時、霞ヶ浦の冷たい水底から響くような声がした。 ピタリと動きを止めた二人の視線の先には、イタリア製マフラーを完璧に巻いたエリート、西園寺教授が立っていた。彼は「やれやれ」と肩をすくめながら、今野教授の握りしめていた『芭蕉の万歩計』をスッと抜き取った。
「おお、西園寺くん! 見たまえ、江戸のカーディオ・トレーニングの実証実験だ! 私は『おくのほそ道』の真の消費カロリーに……!」
西園寺教授は、無言で万歩計の裏面を指差した。
「……今野くん。君の言う『極小の黒い砂利』を動かす動力源だがね。ここに、江戸のからくり師には到底作り出せない銀色の円盤が入っているよ」
「な、なんだと? まさか、平賀源内が発明した永久機関……!」
西園寺教授は、冷酷な笑みを浮かべて宣告した。
「『ボタン電池(CR2032)』だ。そしてご丁寧に、本体の裏に『〇〇市 国民健康保険組合 メタボ予防キャンペーン 2015』というステッカーが貼ってある」
中庭に、奥州の冬より厳しい沈黙が降り注いだ。 松尾芭蕉は、平成27年度の市役所の健康促進キャンペーンに参加し、メタボリックシンドロームの予防に努めていたらしい。
「……そもそも、万歩計の横に『リセット』というカタカナのボタンがある。君は実証実験の前に、自分の人生のボタンをリセットしてきた方がいい」 西園寺教授は万歩計をポイッと今野教授のザルの中に放り投げ、優雅な足取りで去っていった。
結末:歴史は立体的に見える
夕暮れの第三歴史学研究室。 ザルと重いリュックを投げ捨てた佐藤は、無言で特売のちくわの穴から向こう側の景色を眺めていた。
部屋の隅では、ダウンジャケットを着たままの今野教授が、床に大の字になって息も絶え絶えになっている。 「……なぜだ。私の歴史的直感は完璧だったはずなのに。芭蕉が市役所の窓口で景品を受け取る姿が見えたというのに……」
佐藤はちくわを一口かじり、熱いほうじ茶をすすった。 「だから言ったじゃないですか。五十円のプラスチックで日本文学史がひっくり返るわけないんです。もう諦めて、明日の『化政文化の発展』のまともな講義準備をしてください」
「……」 無言のまま、今野教授がのそりと立ち上がった。 その目は、なぜか再びギラギラと、次元を超えた歴史への欲望を取り戻している。
「……佐藤くん。実はね、昨日、商店街の文房具屋のデッドストックの段ボールから、とんでもない『神の目』を発見してしまったんだ。たったの十円だった」 「……十円。ついに駄菓子レベルまで価格が下がりましたね。で、今度は何ですか」
今野教授は、白衣のポケットから、厚紙で作られた、右目が「青色」、左目が「赤色」のセロハンが貼られた奇妙なメガネを取り出した。
「見たまえ! これこそ真の世紀の大発見だ! 『葛飾北斎が「富嶽三十六景」を描く際に掛けていた、江戸時代の3Dメガネ』だ!」
「……」 佐藤はちくわを飲み込むのを忘れてむせた。
「ほら、見てみろ! 北斎の浮世絵の波があんなにも立体的なのは、この『赤青の秘術メガネ』を通して、富士山と波を3Dで捉えていたからなのだ! これぞ江戸のバーチャル・リアリティ……!」
「教授」 佐藤は静かに立ち上がり、自分のカバンから黒いマジックペンを取り出した。 「とりあえず、その赤と青のセロハンを黒く塗りつぶして、何も見えないようにさせてもらえませんか?」
奇跡を信じて疑わない三流学者と、ちくわの穴から現実逃避をする助手の果てしない歴史探求は、明日も明後日も、立体的に続いていくのである。

