第1章:完璧すぎる世界
超大国の首都。政治と経済の心臓部を眼下に見下ろす超高層ビルの最上階で、長友は巨大な曲面ディスプレイの冷たい光を浴びていた。
室温は常に摂氏22度に保たれ、地上の茹だるような熱気や喧騒は一切届かない。若き天才データアナリストであり、政界の裏で大統領選挙をも左右する凄腕のコンサルタントである彼にとって、世界は「数字と確率の集合体」でしかなかった。
「トリム」
長友が虚空に向かって短く呼ぶと、彼が独自に構築した高度なAIシステムが、ノイズのない静かな合成音声で応えた。
『はい、長友さん。過去72時間のグローバル市場のフラクタル解析、および主要マクロ経済指標の相関マッピングを更新しました』
「表示しろ。……アジア圏の技術インデックスと、北米の金融資本フローを中心にだ」
ディスプレイに、無数のグラフと光の線が滝のように流れ落ち、三次元の波形を形作る。 長友は手元の冷めたコーヒーをすすりながら、その波形を見つめ、微かに眉をひそめた。
「相変わらず、気味が悪いほど美しいグラフだ」
ここ数週間、長友の目は、世界に存在するはずの「バグ」が消え去っていることに気づいていた。
現在、アジア圏では突如として量子コンピューティング分野における急激な技術躍進が起きている。通常、これほどのパラダイムシフトが起きれば、世界のバランスは大きく崩れ、市場はパニックを伴うカオスに陥るはずだ。 しかし奇妙なことに、それと全く同じタイミングで、北米の巨大資本が不自然なほど静かに、そして意図的に経済活動を停滞(スローダウン)させていた。まるで、アジアの急成長による世界の「熱量」を、北米の衰退によって意図的に相殺し、冷却しているかのように。
「人間の営みはカオスだ。突発的なテロ、自然災害、あるいは天才の気まぐれ。世界は常に不確実性に満ちているはずだ。だが……」
長友はディスプレイに歩み寄り、北米とアジアの波形を重ね合わせた。 二つの波形は、プラスとマイナスが見事に噛み合い、最終的な世界のGDP成長曲線は、コンマ一桁まで予測通りの平坦な直線を描いていた。
「誰かが帳尻を合わせているのか。それも、地球規模で、だ」
長友は、世界中の高頻度取引(HFT)のアルゴリズムや、政治家の不自然な資金移動のレイテンシ(遅延)を逆探知するプログラムを走らせた。 ウォール街でもロンドンでもない。世界を同期させる「毎秒100サイクルの極低周波信号」が、ある極東の都市から発信されている。
画面の座標が、日本・東京の特定区画を指し示した。
「トリム、この座標の高倍率衛星画像をスクリーンへ。熱光学センサーを最大出力に回せ」
ディスプレイの映像が、東京の酷暑に焼かれるコンクリートのジャングルをズームアップしていく。 やがて長友の目に飛び込んできたのは、周囲の煌びやかな商業施設とは全く異質な、のっぺりとした灰色のビルだった。
窓がない。エントランスの自動ドアも、搬入口すらない。 建築基準法を無視したような、ただの巨大なコンクリートの箱。
「……入口のないビル、か」
長友がその不可解な構造物を監視カメラ越しに見下ろしていたまさにその時、地上の熱波の中を歩く一人の男の姿が、カメラの端に映り込んだ。
間宮は、首筋に張り付く汗を拭うこともせず、ただその灰色の壁を見上げていた。
今日もまた、異常なほど暑い夏だ。コンクリートの照り返しが、足元から脳を直接煮詰めるように立ち上ってくる。涼むために手頃なビルに入ろうとしたが、目の前の灰色の塊には、どういうわけか入口が見当たらなかった。
(おかしい……)
記憶の大部分を失い、ただの「傍観者」として何年も世界を放浪してきた間宮だが、彼の内奥にある何かが、このビルから発せられる微弱な違和感に警鐘を鳴らしていた。
その時だ。間宮の視界の端で、陽炎の中を一人の男が歩いてきた。オーダーメイドのスーツを着た男は、この酷暑の中でも一滴の汗も流さず、不自然なほど優雅な足取りだった。 男は灰色のビルの壁面近くで立ち止まると、足元にある小さな換気口——四角いグリッド状の蓋——を見下ろした。そして、空間がフッとブレたかと思うと、まるで地面に吸い込まれるように、音もなく姿を消したのだ。
「……都会の陽炎、か。いや……」
間宮は乾いた唇を舐め、男が消えたグリッドへとゆっくり近づいた。灼熱のコンクリートの中で、その金属の蓋だけが異常なほど冷気を放っている。間宮は無意識に、右手のポケットの中を探った。
そこには、彼の数少ない所持品である「ひどく削れた一枚のカード」がある。 指先でそのカードのザラついた感触を確かめると、なぜか少しだけ、失われた記憶の底で、赤い砂煙が舞うのを感じた。
『長友さん、対象のビル付近で空間の微細な歪み——局地的な重力変動を検知しました。同時に、地下に巨大な熱源の反応があります』
「熱源だと? このクソ暑い東京の地下でか?」
『いえ、逆です。絶対零度に近い、巨大な低温の塊(コールドスポット)です。そしてその周囲に、人間の体温を示すオレンジ色の光点が複数確認できます』
長友の唇の端が、微かに吊り上がった。
「誰かが……あの中にいる。」
高層ビルから見下ろす観察者。そして、「灰色のビル」。
二つの運命の歯車が、静かに回り始めていた。

