観察者-11

第9章:赤き星の遺産

凍てつくようなビル風が、深夜の新宿に吹きすさんでいた。 ネオンの光が届かない雑居ビルの隙間、ゴミの饐えた匂いと冷たいコンクリートに挟まれた路地裏で、間宮は荒い息を潜めていた。

先ほどの地下鉄での猟犬(クリーナー)との遭遇。あの絶対的な「空間制御」を打ち破った代償として、間宮の体力は激しく消耗していた。不老の肉体を持つ特権階級とはいえ、記憶を封印し、数千年間ただの下界の放浪者として生きてきた彼の体は、本来の幹部としての機能をまだ取り戻していない。

間宮は、右手に握りしめた「削れたカード」を見つめた。 暗がりの中でも、そのカードは脈打つように淡い赤い光を放っている。

(……思い出した。これはただの鍵じゃない。俺が……俺自身で切り離した、もう一つの心臓だ)

間宮の脳裏に、赤茶けた砂漠の風景が鮮明に広がる。 争いを無くし、飢餓を無くし、あらゆるリスクを計算し尽くして排除した結果、進化の歩みを止め、ただ静かに死を迎えた星、火星。 彼は、その星の「完全に停止した時間のデータ」——絶対的なゼロの記録をこのカードに圧縮し、自身の記憶とともに封印したのだ。地球という、まだカオスと生命力に満ちた青い星で、一人の傍観者として生き直すために。

しかし今、特権階級の五人の幹部(ペンタグラム)は、この地球をかつての火星と同じ「完璧な箱庭」に変えようとしている。

「……同じ過ちを、繰り返させるわけにはいかない」

間宮は立ち上がり、路地裏の奥へと歩き出した。 頭上の夜空には、長友が動かしているであろうNSA(国家安全保障局)の軍事衛星と、ペンタグラムの猟犬たちの監視網が幾重にも張り巡らされている。だが、間宮の向かう先は空ではない。

彼が目指したのは、東京の地下深く、現代の都市計画図からは完全に抹消された「忘れられた層」だった。


深夜の地下鉄構内。最終電車が去り、シャッターが下ろされた後の静寂の中、間宮は関係者以外立入禁止の扉をピッキングで開け、さらに奥のメンテナンス用トンネルへと進んでいった。

数十メートルも歩くと、近代的なコンクリートの壁は姿を消し、昭和初期、あるいはそれ以前に掘られたと思われる剥き出しの岩肌と古びたレンガ造りの暗渠(あんきょ)に行き当たった。冷たい地下水が足元を濡らす。

ここは、間宮が記憶を封印する直前、ペンタグラムの監視網から逃れるために密かに構築した「個人的なバックアップ・ターミナル」の隠し場所だった。

暗渠の最奥部。苔むした分厚い鉄の扉が、間宮の行く手を塞いでいる。 当然、取っ手も鍵穴もない。間宮は迷うことなく、右手のカードの「削れた断面」を、鉄の扉の表面のわずかな凹みに押し当てた。

——コンッ。

数千年ぶりに、二つの物理的・量子的データが合致した音。
重々しい地響きとともに、苔むした鉄の扉が左右に割れ、奥から乾燥した古い空気が吐き出された。

間宮が足を踏み入れると、天井の古い蛍光灯がパパパッと順に点灯していく。 そこは、あの灰色のビルの地下広間にあるような洗練された空間ではない。無骨なサーバーラックと、古びたコンソールが埃をかぶって鎮座する、時代遅れのハッカーの隠れ家のような部屋だった。

間宮がメインコンソールに近づき、カードをスロットに差し込むと、巨大なブラウン管モニターが低い唸り声を上げて起動した。

緑色の文字が、滝のように画面を流れていく。

『……生体認証クリア。量子波長一致。』 『Welcome back, Administrator of the Red Sphere.(お帰りなさい、赤き星の管理者)』

「随分と長く眠らせてしまったな」

間宮はコンソールのキーボードの埃を払い、ひび割れた指先でコマンドを打ち込み始めた。 画面には、現在の地球上のペンタグラムのネットワーク構造——世界を5等分するノードと、東京のマスターノード(計時装置)の繋がりが、粗いワイヤーフレームで表示された。

「……やはりな」 間宮の目が、ワイヤーフレームの一部を凝視した。 「完璧であるはずの同期アルゴリズムに、微小なノイズが混入している。ユーラシアと北米のデータトラフィックの間に、意図的な『遅延』が生じている」

誰かが、ペンタグラムのネットワークに毒を盛っている。 間宮の脳裏に、数日前に監視カメラ越しに感じた、大統領・長友の「観察する視線」が過った。

「下界の人間の中に、神の玉座に指をかけた奴がいるというのか。面白い」

間宮は、カードの中にある「火星の死のデータ」を、この旧式ターミナルを通じて展開した。 このデータを東京のマスターノード……あの青白い水晶体(計時装置)に直接叩き込めば、「動的な絶対時間」と「完全に停止した時間」が矛盾を起こし、システムは自壊する。

だが、それは同時に、第6の幹部である間宮自身も、不老の肉体を失い、ただの死すべき人間になることを意味していた。

「……望むところだ」

間宮はターミナルの画面を見つめ、静かに笑った。 永遠の停滞よりも、明日死ぬかもしれない不確実なカオスの方が、よほど生きている価値がある。

「ペンタグラムの猟犬どもが嗅ぎつける前に、準備を整える。あの灰色のビルを、神々の墓標にしてやる」

赤き星の元管理者は、埃まみれのコンソールを叩き、東京の地下深くに眠る古い防衛システムを一つずつ目覚めさせていった。


『長友さん。……見失いました』

ホワイトハウスの地下バンカー。 AIトリムの報告に、長友は忌々しげに舌打ちをした。

「世界最高のNSAの監視網だぞ? なぜ一人の男を見失う」

『対象は新宿の地下鉄構内に入った後、完全に熱源反応および電子的な痕跡(デジタル・フットプリント)を絶ちました。さらに、ペンタグラムの「猟犬」たちも、対象の追跡に失敗し、右往左往しているトラフィックを傍受しています』

長友は腕を組み、ディスプレイに映る東京の地下鉄路線図を睨みつけた。 特権階級の暗殺部隊すら撒く、圧倒的な潜伏能力。

「あいつはただのイレギュラーじゃない。ペンタグラムと同等、いや、それ以上の何かを知っている……」

長友の口元に、凶悪な笑みが浮かんだ。

「いいだろう。隠れるなら、無理に引きずり出さずとも、奴が必ず現れる場所で待てばいい」 「奴の目的は、俺たちと同じだ。必ず、あの東京の『入口のないビル』を破壊しに来る。トリム、東京のマスターノード周辺の監視を通常の千倍に引き上げろ。アリ一匹の熱源も見逃すな」

大統領の権力とAIの知能を持つ「観察者」。 そして、過去の罪を清算しようとする「解放者」。 二つの反逆の刃は、神々の拠点である東京の地下へと、静かに、しかし確実に狙いを定めていた。