第10章:不可視の共闘
ワシントンD.C.の地下深く、国家最高機密データセンター。 冷却ファンの重低音が鳴り響く中、大統領・長友は巨大な曲面ディスプレイを凝視していた。画面には、地球の裏側——深夜の東京、新宿区の入口のないビル周辺の監視マッピングが高精細なワイヤーフレームで展開されている。
『長友さん。対象の熱源反応を再捕捉しました』
「トリム」の音声が、静寂を破った。
「来たか」 長友が身を乗り出すと、ディスプレイの一部が拡大された。 冬の凍てつく闇の中、灰色のビルの足元に向かって、一つの熱源がゆっくりと、しかし迷いのない足取りで近づいている。あのボロボロのコートを着た男、間宮だ。
だが、間宮の行く手には致命的な罠が張られていた。
『ペンタグラムの防衛網が展開されています。対象の半径100メートル以内に、光学迷彩(ステルス)モードで潜伏している「猟犬」が11機。さらに、空間の重力定数を局地的に操作する防御フィールドがアクティブ状態です』
「海老名の奴、自分の庭に特権階級の番犬を放ったか。いくらあの男が謎の力を持っていようと、四方八方から同時に空間を切断されればひとたまりもないぞ」
長友は、コンソールのキーボードに両手を這わせた。 彼はペンタグラムに忠誠を誓う操り人形のふりをしながら、すでに世界最大のサイバー部隊(USCYBERCOM)とNSAの全リソースを掌中に収めていた。
「トリム。猟犬が使っている『空間同期アルゴリズム』のレイテンシ(遅延)の隙間を突け。奴らの視覚野と通信プロトコルに、μ秒単位で偽のパケット(データ)をスパイク的に注入するんだ」
『了解。指向性EMPおよび、量子暗号のハンドシェイクに対する妨害工作(ジャミング)を開始します』
東京、深夜2時。 間宮は、灰色のビルまであと50メートルの距離まで迫っていた。 息を潜めて路地の陰から窺うと、ビルの周囲の空間が微かに「歪んで」いるのが見えた。人間の目には見えないが、長年「火星の管理者」として高次元のエネルギーに触れていた彼には、そこに複数の暗殺者——猟犬が潜伏していることが直感で分かった。
(10……いや、11人か。俺が地下へのグリッドに近づいた瞬間、一斉に襲いかかってくる算段だな)
間宮は右ポケットのカードを握りしめた。 カードを掲げて重力異常を相殺することはできるが、全方位からの物理的な高周波ブレードの斬撃をすべて躱すことは、今の人間化した肉体では不可能に近い。
一か八か、強行突破するしかない。 間宮が覚悟を決め、路地の陰からコンクリートの広場へ足を踏み出そうとした、まさにその瞬間だった。
——バチバチバチッ!!
突然、ビルの周囲の街灯が狂ったように明滅し、破裂音とともに一斉に弾け飛んだ。 さらに、周囲の交差点の信号機すべてが深紅に染まり、監視カメラの首が痙攣したようにあらぬ方向へと回転し始める。
「……何だ!?」
間宮が息を呑むと同時に、何もない空間にノイズが走り、光学迷彩の処理にバグを起こした猟犬たちの姿が「ポリゴンの破片」のようにチラチラと実体化し始めた。彼らの被っているバイザーから火花が散り、ネットワークからの突然の切断にAIがパニックを起こしているのが素人目にも分かった。
(……誰かが、俺を援護している?)
間宮の脳裏に、世界中のトラフィックに意図的な遅延を発生させていた「未知のハッカー」の存在がよぎった。まさか、下界の人間がペンタグラムの暗殺部隊をサイバー攻撃で足止めしているというのか。
『行け、イレギュラー。神の玉座をぶち壊してこい』
間宮が持っていた古い通信端末から、ノイズ混じりの、酷く傲慢で冷ややかな声が一瞬だけ響いた。誰の声かは分からない。だが、目的が一致していることだけは確かだった。
「……上等だ」
間宮は地を蹴った。 光学迷彩が剥がれ、システムエラーで動きが鈍った猟犬の懐に潜り込み、その顎を掌底で的確に砕く。特権階級の力に頼り切った暗殺ドローンなど、システムがダウンすればただの脆い人形にすぎない。
次々と機能不全に陥る猟犬たちを縫うように駆け抜け、間宮はついに灰色のビルの足元、あの換気口(グリッド)に到達した。
背後から数体の猟犬がシステムを再起動し、高周波ブレードを振りかざして迫る。 間宮は振り返らず、右手の「削れたカード」をグリッドの凹みに叩きつけた。
——ガチャンッ!!
絶対的な鍵が開く音。 グリッドが内側へ弾け飛び、間宮はブレードが自身の背中をかすめる寸前で、暗い地下への縦穴へと滑り落ちた。直後、グリッドは自動的に閉鎖され、猟犬たちの刃は空しくコンクリートを削った。
「ハッキング成功。男の地下への侵入を確認しました」
ワシントンD.C.の地下で、長友は大きく背もたれに寄りかかり、満面の笑みを浮かべた。 自らの手は一切汚さず、最高権力とサイバー攻撃を駆使して、特権階級の最も恐れる男を彼らの心臓部へと送り込んだのだ。
「よくやったトリム。これでトロイの木馬は、神の腹の中に侵入した。これより本計画はフェーズ2へ移行する」
長友は大統領としての仮面を被り直し、ペンタグラムの幹部たちがどのような狼狽を見せるか、その「観察」の準備を整えた。
同じ頃、灰色のビルの最深部。 事務官の海老名は、計時装置のコントロールパネルの前で顔面を蒼白にしていた。
けたたましい警報音が、地下広間に鳴り響いている。
「防衛システム、突破されました! 第6の暗号鍵(シグネチャー)が、地下第1層のロックを解除! 侵入者、こちらへ向かって降下中!」
海老名は震える手で、ワームホール通信を起動し、世界中に散る5人の最高幹部に緊急のSOSを発信した。
「幹部の皆様! 至急、東京のマスターノードへ帰還してください! 『火星の亡霊』が、計時装置を破壊しに来ました!」
かつて火星を滅ぼした男の孤独な反逆と、大統領という最強の傀儡による想定外のハッキング。 永遠の命と絶対的な予測のもとに胡坐をかいていた神々の神殿に、かつてないほどの巨大なカオスが押し寄せようとしていた。
(第1部:世界のバグ 完)

