観察者-15

第13章:神殿の崩壊

ズゥゥゥン……!!

灰色のビルの地下最深部。絶対的な安全を誇るはずの防爆扉が、重々しい悲鳴を上げて内側へと歪んだ。

広間の中央で青白い光を放つ計時装置を背に、事務官の海老名は純白のスーツをわななかせて後ずさりした。 外部ネットワーク(ペンタグラムの幹部たち)からの支援は完全に途絶え、物理防衛のイージス群も沈黙した。永遠の命と絶対的な権力に守られてきた海老名にとって、「予測不能な暴力」が扉一枚隔てた向こう側に迫っているという事実は、理解の範疇を超えた恐怖だった。

「開くはずがない……! この防爆扉は、核攻撃にも耐えうる特権階級の絶対防壁だぞ!」

海老名がメインコンソールにすがりつき、震える指でロックの多重化コマンドを叩き込もうとした、その時だった。

——ギィィィィィン……ッ!

扉の強固なロック機構から、不快な高周波が漏れ出した。 物理的な破壊ではない。扉の電子制御パネルに、外側から「真っ赤な光」が押し当てられていた。

間宮の持つ、火星の記憶が刻まれた「削れたカード」。 その高次元のデータ・キャッシュが、地球の物理法則とセキュリティ・アルゴリズムを強制的に上書きし、扉の構造そのものを「開閉の記憶」に沿って解体していく。

「カチッ」

数億通りの暗号鍵が、たった一枚の古いカードによって一瞬で無効化された。 数十トンの重さを持つ防爆扉が、音もなく左右にスライドし、地下広間に冷たい土の匂いと血の匂いが流れ込む。

開け放たれた入り口に立っていたのは、左腕から血を流し、コートをボロボロに引き裂かれた間宮だった。

「……海老名」

間宮の声は低く、広間の冷気に溶け込むように静かだった。 だが、その足取りには、かつて火星の文明を管理していた第6の幹部としての、圧倒的な重圧(プレッシャー)が宿っていた。

「来るなァァッ!!」

海老名は半狂乱になりながら、広間の防衛システムを最大出力で起動した。 間宮の頭上に、数十Gの局地的な重力場が形成されようとする。

しかし、間宮は歩みを止めなかった。 右手に掲げられたカードから溢れ出す赤い光が、間宮の周囲の空間だけを「完全に停止した時間(火星のデータ)」で包み込む。海老名の放つ重力場は、間宮に触れる寸前でエラーを起こし、ガラスの破片のようにパリンと砕け散った。

「バカな……! なぜだ、なぜお前はそこまでしてこの世界を壊そうとする!」 海老名は後退り、ついに計時装置の台座に背中をぶつけた。

「俺たちが管理しなければ、人類は自らの愚かさで自滅するだけだ! 戦争、飢餓、恐慌! 我々ペンタグラムが歴史をデザインし、この時計で不確実性を消し去ってやってるからこそ、サルどもは平和に生き延びているんじゃないか!」

海老名の絶叫が、広間に虚しく響き渡る。 それは、特権階級が自らの支配を正当化するための、何百年も繰り返されてきた傲慢な呪文だった。

間宮は、血を流す左腕を庇うこともせず、海老名の目の前まで歩み寄った。

「平和だと?」 間宮の瞳に、深い哀しみと怒りが交錯した。

「すべてが予測可能な安全な世界。誰も傷つかず、誰も失敗しない。……俺は、あの赤い星でその究極の『平和』を完成させた。だが、行き着いた先は、進化を止めた生命の完全な静止(死)だった」

間宮はカードを握る右手を高く振り上げた。

「人間には、失敗する権利がある。絶望し、傷つき、それでも予測不能な明日へ向かって足掻く自由意志がな。お前たちが奪ったのは、人類の未来そのものだ」

「や、やめろ……! それを壊せば、ワームホールは消滅し、我々の不老不死のネットワークもすべて終わる! お前もただの人間になるんだぞ、間宮!!」

海老名が涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら懇願する。 永遠の命を持つ特権階級のメッキが剥がれ落ち、そこにはただの死を恐れる哀れな男がいた。


『長友さん。……間宮が、計時装置のコアに到達しました』

ワシントンD.C.の地下バンカー。 大統領・長友は、監視カメラのハッキング映像越しに、その歴史的瞬間を息を呑んで見つめていた。

中東の混乱に対処するため、ペンタグラムの幹部たちは完全に東京から目を離している。 今、神々の心臓は完全に無防備だった。

「傍観者……いや、解放者よ。神々の退屈な時計を、お前の手でぶっ壊せ!」 長友は、無意識のうちに拳を強く握りしめ、ディスプレイに向かって吠えた。


東京、地下広間。

「これで、あなた方の観測は終わりだ」

間宮は海老名を冷たく見下ろすと、一歩踏み出し、赤く脈打つカードを——自身の数千年の後悔と、火星の死の記憶が詰まったデータの塊を、青白い光を放つ計時装置の水晶体の中央目掛けて、全力で叩き込んだ。

——ドォォォォォォォォン……ッ!!!

カードが水晶体に激突した瞬間、音が消えた。 いや、音だけでなく、光も、重力も、空間の概念すらもが一瞬にして消失した。

「絶対的な地球の動的時間」と、「完全に停止した火星の死の時間」。 決して交わるはずのない二つの高次元データが、計時装置のコアで正面衝突し、致死量の矛盾(パラドックス)を生み出したのだ。

水晶体の表面に、クモの巣状の巨大な亀裂が走る。 亀裂からは凄まじい閃光が噴き出し、広間の空間がスローモーションになったかと思えば、次の瞬間には倍速で再生されるという、狂気のような時間の乱高下が始まった。

「あ、あああ……アアアアァァァッ!!」

海老名の体が、時間の乱れに巻き込まれ、激しく痙攣する。 彼の純白のスーツが急激に色褪せ、艶やかだった髪が白髪へと変わり、若々しかった肌に無数のシワが刻まれていく。特権階級の不老不死を支えていた環境維持システムが、根元から崩壊を始めたのだ。

間宮は、自らの体からも特権階級としての「永遠の縛り」が抜け落ちていくのを感じながら、砕け散りゆく巨大な水晶体を見つめていた。

正確な時計の音は、もはや聞こえない。 代わりに聞こえてきたのは、絶対的な秩序が崩れ去り、世界が本来の「カオス」を取り戻していく、荒々しい崩壊の地響きだった。