観察者-17

第15章:新王の産声

ワシントンD.C.、ホワイトハウス。 大統領執務室の重厚なデスクの前に立つ長友は、カメラの赤いランプが点灯するのを、静かな昂揚感とともに見つめていた。

『長友さん。米国内の全放送局、主要な動画配信プラットフォーム、および同盟国の公共電波への強制割り込み(ハイジャック)が完了しました。現在、世界中の推定三十億人が、この映像をリアルタイムで視聴しています』

AIトリムの報告に、長友は小さく頷いた。 特権階級(ペンタグラム)のネットワークが崩壊し、プロンプターによる「神の指示」を失った世界各国の首脳たちは、パニックに陥り沈黙を守っている。この絶対的な権力の空白(パワーバキューム)に、最も早く、最も力強いメッセージを叩き込んだ者こそが、新たな世界の支配者となる。

「世界中の市民、そして同盟国の諸君」

長友は、深く、響き渡る声で語り始めた。その表情は、未曾有の危機に立ち向かう力強い指導者そのものだった。

「過去数時間、世界中の金融市場、物流ネットワーク、そして通信インフラに、原因不明の壊滅的な障害が発生している。多くの国で指導者たちが混乱し、沈黙していることだろう。だが、安心してほしい。我が合衆国政府は、この事態を完全に掌握している」

長友の言葉は、嘘と真実が巧妙に織り交ぜられていた。

「我々は長年、見えないシステム——古いアルゴリズムや、一部の既得権益層が構築した『予測可能なレール』の上に乗り、盲目的に歩まされてきた。今回の世界的ダウンは、その古きシステムが限界を迎え、自壊した音だ」

彼は、特権階級の存在を直接は明かさない。彼らを「古いシステム」と呼び換え、自らの手でそれを打ち破ったのだと暗に匂わせることで、パニックを「解放の歓喜」へとすり替えようとしていた。

「レールは消えた。だが、それは絶望ではない。我々人類が、自らの足で、自らの自由意志で、予測不能な荒野を切り拓く『真の自由』を手に入れたということだ。我が国は、この混沌を先導する松明(たいまつ)となる。私を信じ、私に続け。我々の未来は、我々自身の手で決定するのだ!」

画面の向こうで、混乱のどん底にいた数十億の群衆が、この強烈なカリスマを放つ演説にどう反応するか、長友には手に取るように分かった。彼らは熱狂し、新しい「神」として長友を崇めるだろう。

カメラのランプが消えると、長友はネクタイを緩め、傲慢な笑みを浮かべて革張りの椅子に深く腰を下ろした。

「……チョロいものだ。台本(アルゴリズム)がなくても、サルの群れを誘導することなど造作もない」

『長友さん。世界の市場が、あなたの演説を受けて猛烈な勢いで反発(リバウンド)を開始しました。あなたの支持率は、計測不能な領域へと突入しています』

「いいぞ、トリム。これからは俺が、この予測不能な世界(カオス)のルールブックだ」


同じ頃。凍てつくような冬の東京。 灰色のビルの地下第1層から、地上へと続く狭いメンテナンス用の縦穴を、間宮は這い上がっていた。

「ハァッ……ハァッ……!」

かつて火星を管理していた特権階級の肉体であれば、疲労など感じるはずもなかった。しかし今の彼は、ただの脆弱な人間だ。イージス(防衛ゴーレム)との戦闘で負った左腕の傷が激しく痛み、冷え切った鉄製のハシゴを握る手のひらからは、血が滲んでいる。

(海老名の言う通りだ。ワームホールが消えた今、このビルはただの巨大なコンクリートの棺桶にすぎない……)

間宮は歯を食いしばり、上を見上げた。 縦穴の頂上には、彼が数時間前に侵入した「四角いグリッド(換気口の蓋)」が見える。

ようやくハシゴを登りきり、間宮はその冷たい金属のグリッドに手をかけた。しかし、ビクともしない。計時装置の破壊により、ビル全体の電子ロック機構が完全に死に絶え、分厚い金属の蓋は物理的に封鎖された状態になっていた。

「……開け!」

間宮は右ポケットに手を入れた。そこには、あの「削れたカード」がある。 しかし、指先に触れたそのカードは、もはや何の光も発していなかった。火星の「停止した時間のデータ」をすべて計時装置に叩き込み、その役目を終えたカードは、ただの冷たいプラスチックと金属の残骸に成り果てていた。

高次元の魔法はもう使えない。ここから先は、純粋な人間の力だけでこじ開けるしかなかった。

間宮は、イージスの関節を砕いた時に使った血まみれの金属製スパナを懐から取り出した。 グリッドのわずかな隙間にスパナの先端をねじ込み、全身の体重をかけてテコの原理で押し上げる。

「グッ……アアアアァァァッ!!」

軋む骨。張り裂けそうな筋肉。左腕の傷口から温かい血が噴き出し、顔に垂れてくる。 不老不死だった頃には決して味わうことのなかった、生々しい「死の恐怖」と「生の渇望」が、間宮の全身を焦がすような熱となって駆け巡った。

——ガキィィィィンッ!!

鈍い金属音とともに、電子ロックのシリンダーが物理的にへし折れた。 グリッドの蓋が勢いよく跳ね上がり、凍てつくような東京の冬の夜風が、血と汗にまみれた間宮の顔を叩いた。

「ハァ……ハァ……!」

間宮は隙間から地上へと這い出し、冷たいアスファルトの上に大の字に倒れ込んだ。 見上げれば、星一つない東京の曇天が広がっている。排気ガスの匂い。遠くで鳴り響くパトカーのサイレン。

「……生きて、いる」

間宮は、自分の震える血まみれの手を夜空に透かして見つめ、静かに笑った。 完璧な安全と引き換えに死を待つだけの火星の玉座よりも、この痛みに満ちた冷たいアスファルトの上の方が、何百倍も美しく感じられた。

ゆっくりと身を起こし、間宮は新宿のメインストリートへと歩き出した。 深夜3時だというのに、街は異様な熱気に包まれていた。行き交う人々は皆、立ち止まってスマートフォンを見つめたり、ビルの壁面にある巨大なデジタルサイネージを見上げたりして、ざわめいている。

間宮も、彼らの視線の先——巨大なスクリーンを見上げた。

そこには、星条旗を背にして、自信に満ちた表情で世界に向けて演説を打つ、長友大統領の姿が映し出されていた。

『我々人類が、自らの足で、自らの自由意志で、予測不能な荒野を切り拓く「真の自由」を手に入れたということだ。私を信じ、私に続け——』

その力強い言葉に、周囲の群衆から安堵と歓声が漏れ始める。 だが、間宮の目は騙されなかった。スクリーン越しに長友の瞳の奥に宿る、冷酷で傲慢な「観察者」の光を、間宮ははっきりと見て取った。

(……ペンタグラムは消えた。だが、あの男がその玉座を掠め取ったか)

特権階級という絶対的なシステムは破壊した。しかし、長友という新たな「人間の独裁者」が、このカオスを利用して世界を自分だけのチェス盤に変えようとしている。

間宮は、すり切れたコートのポケットに、ただの金属片と化したカードを静かにしまい込んだ。

「まだ、終わりじゃないらしいな」

予測不能な人間の時間を守るための、次なる戦い。 解放者として人間の血を手に入れた間宮は、熱狂し始めた雑踏の中に背を向け、サイレンの鳴り響く東京の闇の奥へと、一人歩みを進めていった。