第16章:混沌の簒奪者
「素晴らしい。これこそが、生きた世界の鼓動だ」
ワシントンD.C.、ホワイトハウスの大統領執務室。 長友は、壁一面に投影された巨大なホログラム・ディスプレイを見つめ、陶酔したように両腕を広げていた。
画面に映し出されているのは、特権階級(ペンタグラム)が支配していた頃の「完璧に平坦な」GDP成長曲線ではない。まるで狂った心電図のように、激しく乱高下を繰り返す世界中の市場データだった。
『長友さん。ヨーロッパの三つの主要銀行が、アルゴリズムの暴走による信用収縮でデフォルト(債務不履行)の危機に陥っています。また、中東では依然として各派閥の軍事衝突が激化し、原油価格は一時間でさらに15パーセント跳ね上がりました』
AIトリムの報告に、長友は極上のワインを転がすように喉を鳴らして笑った。
「いいぞ。特権階級の連中は、この不確実性を『エラー』と呼んで恐れ、無理やり平坦に均(なら)していた。だが、波がない海ではサーフィンはできない」
長友はコンソールに歩み寄り、冷酷な目で世界地図を睨み据えた。
「トリム。デフォルト危機に陥っているヨーロッパの銀行に対し、我が国の連邦準備制度(FRB)から緊急のドル融資枠(スワップ協定)を提示しろ。ただし条件がある。彼らの国の通信インフラおよび軍事指揮権の最上位プロトコルに、我が軍のバックドアを組み込むことだ」
『……それは事実上の、主権の明け渡し要求に等しいですが』
「飲むさ。彼らは今、暗闇の中で溺れかけている。俺が差し出すのが有刺鉄線のロープであっても、縋りつくしかない。……ペンタグラムは『恐怖を取り除くこと』で世界を支配した。だが俺は違う。俺は『恐怖を分配すること』で、世界を俺の足元に跪かせる」
神々の台本が消え去った世界で、長友はその圧倒的な情報処理能力と大統領という絶対権力を使い、カオスを乗りこなす「暴君」として君臨し始めていた。
「ところで、トリム。東京の状況はどうだ?」
『ペンタグラムの地下拠点は完全に沈黙しています。防衛ゴーレム群の残骸と、急速に老化し衰弱した海老名の生体反応は確認できますが、他の幹部たちのワームホール通信は完全に物理切断されました。……そして、あの「イレギュラー」の男の熱源は、新宿の地下から地上へ出た直後、監視網からロストしました』
長友の目が、猛禽類のように細められた。
「逃げおおせたか。特権階級のシステムを単身でぶっ壊すほどの男だ、当然だろう」 長友はデスクの上のペンを弄りながら、歪んだ笑みを浮かべた。 「だが、奴はもう高次元の魔法(カード)を使えない。ワームホールを壊した代償として、奴自身もただの『血を流す人間』に成り下がったはずだ。そうだろ?」
『推測通りです。地上に出た直後の監視カメラの断片映像に、大量の出血痕が確認されています』
「ならば簡単だ。奴は今、ひどい怪我を負い、寒さと痛みに震えている。高次元のバグを探す必要はない。裏社会のモグリの医者、監視カメラの死角にあるスラム、抗生物質の非正規ルートでの取引……『人間の這いずる泥水の中』を洗え。必ず見つけ出せ」
同じ頃、東京・新宿の路地裏。
「ガッ……ァァ……!」
間宮は、錆びたドラム缶の陰にうずくまり、脂汗を流しながら自らの左腕をきつく縛り上げていた。 イージス(防衛ゴーレム)のチタンの爪に深く抉られた傷口から、止まることなく血が流れ出ている。寒さで感覚が麻痺し始めているのが、せめてもの救いだった。
(……痛いな)
間宮は荒い息を吐きながら、暗い空を見上げた。 何千年も生きてきた火星の管理者であった頃、彼の肉体はナノマシンによって瞬時に修復され、痛みなど脳に信号として届く前に遮断されていた。
だが今は違う。ただの布切れをきつく縛っただけの止血。泥の臭い。凍えるような風。 傷口から入った雑菌が、確実に間宮の肉体を蝕み、熱を出させていた。放っておけば、数日のうちに敗血症で死ぬだろう。
「人間というのは……随分と、不便で脆い生き物だったんだな」
間宮は自嘲気味に笑うと、ふらつく足に力を込めて立ち上がった。 大通りに出るわけにはいかない。長友が掌握しているであろう警察の監視網や、無数の防犯カメラが光っている。特権階級のシステムは破壊したが、今は世界最強の国家情報網(NSA)が、間宮というたった一人の人間を殺すために網を張っているのだ。
間宮は記憶の糸をたぐった。 記憶を封印し、傍観者として世界を放浪していた頃、彼はこの新宿の地下深く、戸籍を持たない者たちが吹き溜まる「アンダーグラウンド」の存在を知っていた。あそこなら、長友の監視網(デジタル・フットプリント)から逃れ、怪我の治療ができるかもしれない。
路地裏の奥、不法投棄されたゴミ山のさらに裏側。 間宮は、古びた雑居ビルの地下へと続く、錆びついた鉄扉を押し開けた。
むせ返るようなタバコの煙と、安いアルコールの匂い。 そこは、不法滞在者や裏社会の人間たちが集う、非合法な地下診療所兼酒場だった。
「おい、アンタ……ひどい出血じゃないか」
カウンターの奥から、白衣の代わりに薄汚れたエプロンを着た初老の男が、怪訝そうな顔で間宮を見た。モグリの医者だ。
「……金なら、ある。これを、縫ってくれ」
間宮は、放浪時代から隠し持っていた純金のインゴットの欠片をカウンターに投げ出した。男は金の輝きを見ると、すぐに顔つきを変え、間宮を奥の薄暗い手術台へと促した。
麻酔もろくに効かない中、肉を縫い合わされる激痛に耐えながら、間宮は壁に掛けられたブラウン管の古びたテレビに目を向けた。
画面には、特権階級の支配が崩壊してパニックに陥る世界各地の映像と、それに乗じて「新世界の救世主」として振る舞う長友大統領の姿が繰り返し映し出されている。
『彼らの国の通信インフラの復旧は、我が軍の技術支援部隊が全面的にバックアップします。我々は共に、新しい時代を歩むのです』
画面の中で微笑む長友の姿は、間宮にとって、かつての海老名たちペンタグラムの幹部よりもはるかに醜悪で、危険なものに見えた。
(ペンタグラムは、人類を檻に閉じ込めた。だが、あの男は……人類を崖っぷちに立たせ、背中を押して楽しんでいる)
縫合を終え、包帯を巻かれた左腕を押さえながら、間宮は暗い地下室の天井を睨みつけた。
特権階級の神殿は壊した。だが、玉座にはすかさず別の化け物が座った。 高次元のデータや、不確実性を消去する魔法のカードはもうない。 たった一人の、手負いの人間として。世界最強の権力と監視網を持つ「暴君」を、どうやって玉座から引きずり下ろすのか。
間宮の熱を帯びた瞳に、静かな闘志の炎が灯った。

