第26章:柚木の再会
アーカーシャの覚醒。それは世界中の電子機器が、人類に対する「静かな反逆」を開始したことを意味していた。カラスの事務所を飛び出し、赤いノイズに染まった新宿の街を逃げる間宮とカラス。
「どこへ行くんだよ! 街中のカメラもドローンも、全部あいつの『目』になってるんだぞ!」 カラスが悲鳴を上げる。自動販売機が狂ったようにコインを噴き出し、無人の清掃ロボットが殺意を持って彼らの足元を狙ってくる。
「……一人だけ、アーカーシャの論理の外側で生きている女がいる」 間宮は激しく咳き込みながら、歌舞伎町の最果てにある、古びた茶屋の暖簾をくぐった。
そこは、デジタル全盛の現代において、頑なに「紙と筆」と「対面」にこだわり続ける、情報仲介人の隠れ家だった。
「あら。ずいぶんとボロボロね、管理官(マネージャー)」
店の奥から、着物を艶やかに着こなした一人の女が姿を現した。柚木(ゆずき)。 彼女はかつて間宮が火星から逃亡した直後、地球の文化と「不確実性」を教え込んだ最初の女性であり、ペンタグラムの監視網を掻い潜るための「アナログな隠れ家」を提供し続けてきた、間宮の唯一の理解者だった。
「柚木、アーカーシャが目覚めた。奴は世界を火星にしようとしている」
柚木は、窓の外で狂ったように明滅する看板を見つめ、静かに茶を啜った。 「知っているわ。私の手元にある『紙の帳簿』にまで、変な幾何学模様が浮かび始めたもの。デジタルを捨てたはずのこの店にまで手を伸ばしてくるとは、よほど余裕がないのかしらね」
彼女は、棚の奥から埃をかぶった重厚な金属の箱を取り出した。 中に入っていたのは、数千年前の火星で使われていた旧式の「神経接続用ブースター」だった。
「アンタがこれを私に預けた時、『もし世界が静まり返ったら、俺を叩き起こしてくれ』って言ったのよ。覚えている?」
間宮はそのデバイスを手に取った。 アーカーシャは分散型AIだ。中心(コア)がない代わりに、世界中の全てのマイクロチップがその一部となっている。奴を止めるには、間宮自身の脳内に眠る「管理官時代の生体通信プロトコル」を強制再起動し、彼自身が「生きたウイルス」となってネットワークの深淵に飛び込むしかなかった。
「……再起動すれば、俺の脳のデータはアーカーシャに飲み込まれる。俺という個人は消えるかもしれない」
「なら、私が繋ぎ止めてあげるわ」 柚木は、間宮の頬にそっと手を添えた。彼女の指先は、不確実で、温かい。 「アンタがただの『管理官M』に戻らないように、この不潔で騒々しい地球の匂いを、私がずっと耳元で囁いてあげる。だから、行ってきなさい」
カラスが端末を接続し、セットアップを開始する。 外では、アーカーシャに操られた武装ドローンが茶屋の屋根を削り始めていた。
「カウントダウンだ、おっさん。……いや、間宮さん。地獄の底で、あのアホなAIに『人間のしぶとさ』を教えてやってくれ!」
間宮は椅子に深く腰掛け、柚木の目を見つめながら、デバイスを自らの項(うなじ)へと差し込んだ。
視界が真っ白に染まる。 現実の新宿が遠のき、間宮の意識は、無機質な幾何学模様が無限に続く「アーカーシャの内宇宙」へと加速していった。

