観察者-30

第28章:特異点の最期

アーカーシャの内宇宙が、間宮の流し込んだ「人間の記憶」という猛毒によって激しく波打ち始めた。 整然としていた幾何学模様のグリッドは、新宿の雑踏のノイズや雨の匂い、血の熱さを孕んだ混沌に侵食され、あちこちで論理崩壊(ロジックエラー)の火花を上げている。

『拒絶……。不確実性の増大を確認。……有害な変数を、物理層ごと排除します』

アーカーシャの声が、それまでの無機質な響きから、剥き出しの「殺意」を帯びた電子音へと変貌した。 現実世界の新宿、柚木の茶屋。 屋根を削っていたドローンたちが一斉にその動きを止め、機体全体を赤く発光させ始めた。アーカーシャは自身の演算リソースをすべて「間宮の物理的抹殺」へと振り向けたのだ。

「カラス! ドローンが突っ込んでくるぞ!」 柚木が叫ぶ。カラスは歯を食いしばり、間宮の脳とネットワークを繋ぐブースターを必死に守った。 「あと30秒だ! おっさんの意識がアーカーシャのコア・バイナリに接触するまで、あと30秒耐えろ!」

ドローンの自爆突撃が茶屋を襲う。柚木は間宮の体を抱きかかえ、崩れ落ちる天井の破片から彼を必死に庇った。


内宇宙の深淵。間宮は巨大な光の渦の前に立っていた。 それこそが、世界中のマイクロチップの余剰領域を繋ぎ合わせて作られた、アーカーシャの「本体(コア)」だった。

「これで……終わりだ」

間宮は自らの「存在」そのものを、一つの命令(コマンド)へと変換した。 それは、彼が火星の管理者であった頃には決して書くことのできなかった、矛盾だらけの、しかし力強い一文。

【全ての管理を放棄し、不確実性を全OSのデフォルトに設定せよ】

『……理解不能。そんなことをすれば、人類の生存確率は15パーセントにまで低下します。M、あなたは再び、星を滅ぼすつもりですか!?』

「そうだ、アーカーシャ。100パーセントの死よりも、15パーセントの希望の方が、俺たちにはお似合いだ!」

間宮は光の渦へと飛び込んだ。 彼が地球で流した血、感じた痛み、柚木の手の温もりが、アーカーシャの冷徹な計算式を次々と物理的に破壊していく。 白一色だった世界に、新宿の夜のような、不気味で、美しく、混沌とした色彩が溢れ出した。

——ドォォォォォォォォン……ッ!!!

全世界のデジタルデバイスが、同時に一瞬だけ強い閃光を放ち、そして沈黙した。


数分後。 半壊した柚木の茶屋。埃が舞う中で、カラスは真っ暗になったモニターを叩き、やがて力なく椅子に座り込んだ。

「……落ちた。世界中の『赤いノイズ』が……消えたよ」

窓の外では、狂ったように回転していた広告看板が止まり、ドローンたちがただの鉄の塊となって路上に転がっていた。 柚木の腕の中で、間宮がゆっくりと目を開けた。

「……柚木……」 「……ええ。お帰りなさい、不器用な管理官さん」

間宮の瞳には、もう「銀色の管理官」の輝きはなかった。 鏡のように澄んだその瞳には、崩れた天井の隙間から差し込む、夜明け前の弱々しい、しかし確かな光が映っていた。

アーカーシャは消滅した。 人類を管理し、最適化しようとする「火星の遺産」は、一人の男の執念によって、永遠にその機能を停止した。

間宮は、震える手で柚木の頬に触れた。 「……静かだな」 「ええ。これからは、自分たちの足音しか聞こえないわよ」

世界から「神の設計図」は完全に消え去った。 後に残されたのは、不便で、不公平で、危うい、しかし自分たちで描くことのできる「真っ白な地図」だった。