エピローグ:砂の記憶、水の音
アーカーシャの消滅から一年が過ぎた。 新宿の地下深く、かつて間宮が潜伏した非合法な地下診療所には、今日も怪我人や訳ありの住人たちが集まっている。
「……先生、この腕の傷、まだ時々疼くんだ」
一人の若い男が、モグリの医者に訴えた。医者は老眼鏡をずらし、男の腕を診る。 「そりゃあ、生きてる証拠だよ。傷が疼くのは、身体が自分を治そうと必死に働いてるからだ。機械みたいに一瞬で修復されないのが、人間の不便でいいところさ」
医者はふと、かつてここに現れた「黄金のインゴット」を持っていた男のことを思い出す。あの男が去ってから、世界は随分と騒がしくなったが、人々の表情からはあの「無機質な安らぎ」が消え、どこかギラついた活力が戻っていた。
火星。 地球での騒乱など露知らず、赤い砂漠には依然として静寂が支配している。 かつてのドーム都市の廃墟。管理システムを失い、今はただの巨大なガラスの温室と化したその場所で、奇跡のような光景が起きていた。
間宮が破壊した「管理」の余波か、あるいは地球から持ち込まれた未知の変数の影響か。 枯れ果てていたはずの岩陰から、一筋の「水」が染み出し、赤い砂を湿らせていたのだ。
計算も管理もされていない、不確実な生命の萌芽。 数万年後、この赤い星もまた、地球のような「騒々しいカオス」に満ちた星に生まれ変わるのかもしれない。
新宿。柚木の茶屋。 間宮は、新しく新調した少しだけ質の良いコートを羽織り、店を出ようとしていた。
「また夜に来るわ。今度は、あんたが好きそうな古本を見つけてきたから」 柚木が暖簾を直しながら、背中に声をかける。
「ああ。楽しみにしているよ」
間宮は人混みの中に足を踏み出した。 ふと見上げた空には、新しい時代の到来を告げるような、抜けるような青空が広がっていた。
誰かが決めた未来ではない。 自分が今、この一歩を踏み出すことで作られていく、名前のない明日。
間宮は、雑踏の音を子守唄のように聞きながら、軽やかな足取りで新宿の街へと溶け込んでいった。

