観察者-6

第4章:現実のハッキング

巨大国の命運を決する大統領選挙戦。その熱狂の渦の中心に、長友は立っていた。

「我々は過去の古いシステムに縛られている! 今必要なのは、データを直視し、予測可能な未来を自らの手で築き上げる力だ!」

中西部最大のスタジアム。数万人の熱狂的な支持者が、スポットライトを浴びる若き大統領候補・長友の言葉に熱狂し、地鳴りのような歓声を上げている。

彼の経歴は、突如として完璧なものに「書き換えられて」いた。 数ヶ月前までただの裏方の選挙コンサルタントだった男が、一夜にして莫大な政治資金(ダークマネー)と、誰もがひれ伏すような輝かしい過去の功績を手に入れたのだ。メディアは彼を「新時代の救世主」と持て囃し、彼のあらゆる発言はSNSで爆発的に拡散された。

すべては、北米ブロックを担当する特権階級の幹部が描いた「台本」通りだった。

長友は満面の笑みで手を振りながら、網膜投影デバイスに流れてくるプロンプターの文字を冷ややかに追っていた。群衆の熱狂すら、彼らにとっては音響効果の一つに過ぎない。

(……見事な手品だ。だが、本当に恐ろしいのはこれからだ)

舞台裏に戻った長友を待っていたのは、大統領選の最大の山場である「スイング・ステート(激戦州)」の情勢データだった。対立候補である現職のベテラン上院議員は、強固な基盤を持ち、依然として長友を数ポイント差でリードしている。

「長友さん、対立候補の支持基盤である北東部で、異常気象の兆候があります」

控室で待機していたAIトリムが、タブレット端末越しに報告した。

「気象操作システム(HAARP)の出力が、規定値の数百倍に跳ね上がっています。さらに、北東部へ向かう燃料輸送の巨大パイプライン網の制御バルブに、一斉に『意図的な故障』が発生しました」

長友はネクタイを緩めながら、氷のように冷たい笑みを浮かべた。

「来たか。神々の『現実ハッキング』が」

翌日、全米を未曾有のニュースが駆け巡った。 対立候補の強固な地盤である北東部を、観測史上例のない季節外れの大寒波が襲ったのだ。交通網は完全に麻痺し、パイプラインの停止によって暖房用の燃料が枯渇。数百万人の有権者が凍える家の中に閉じ込められ、投票どころではなくなった。

そして、事態が最悪の局面を迎えたその時、長友の陣営が「事前に手配していた」数千台の緊急支援物資の車列が、吹雪を突いて被災地へと雪崩れ込んだのだ。

「私はデータからこの危機を予測していた! 政治は後手であってはならない!」

カメラの前で力強く語る長友の姿は、まさに予言者であり、行動する英雄だった。支持率は一夜にしてひっくり返り、対立候補の陣営は完全に沈黙した。

さらに追い打ちをかけるように、対立候補の致命的なスキャンダルが大手メディアに「投下」された。それはAIで作られた偽造(ディープフェイク)などではない。特権階級が三十年も前に仕込んでいた「本物の物理的な証拠と隠し口座」の暴露だった。

彼らは未来を予測しているのではない。過去から現在に至るまでの現実(データ)を、チェスの駒を置くようにデザインしているのだ。

「……連中は、三十年後の今日、このタイミングで彼を失脚させるためだけに、過去の現実を捏造して育て上げていたのか」

深夜のホテルの一室。長友は、特権階級の圧倒的で冷酷な時間感覚に背筋が凍るのを感じた。人間の一生をかけた努力や野心など、彼らにとっては数秒で書き換え可能な変数にすぎない。

突然、部屋の空間が歪み、あの純白のスーツを着た海老名が姿を現した。

「見事な演説だったよ、長友君。我が北米担当の幹部も、君の演技力に満足している。これで君の大統領就任は確定だ」

海老名はワイングラスを勝手に傾けながら、見下すように言った。

「感謝します、海老名さん。あなた方の『台本』は完璧だ」 長友は恭しく頭を下げた。操り人形としての完璧な忠誠。

「よろしい。君は世界最大の軍隊と経済のスイッチを手にする。だが、決して忘れるな。その操作パネルのほんの一部であり、大元の電源を握っているのは、我々だということを」

海老名が消え去った後、長友は洗面所の鏡の前に立ち、冷水を顔に浴びた。 鏡の中の男は、世界最強の権力者になることが約束された男。だがその瞳は、鎖に繋がれた飢えた狼のようにギラついていた。

「トリム」 長友は、洗面所の換気扇の音に紛れさせるように極小の声で囁いた。

『はい、長友さん。先ほどの海老名のワームホール転送時に生じた、空間同期の暗号鍵(ハッシュ)の断片のキャプチャに成功しました』

「よし。俺が大統領に就任し、国家の最高機密であるスーパーコンピュータ群(バックボーン)にアクセスできるようになったら、その断片を全て結合しろ。あいつらのネットワークの『心臓』を、この手で抉り出してやる」

特権階級は、長友の知能を侮っている。 チェス盤の上で踊る駒が、盤そのものをひっくり返す準備を進めていることに、まだ気づいていなかった。


一方、その「心臓」が鼓動する東京の灰色のビル、地下深層。

間宮は、冷たいコンクリートの階段を下りきった場所に立っていた。 目の前には、継ぎ目の一切ない、滑らかな金属色の扉がそびえ立っている。

間宮がその扉にゆっくりと手をかざした瞬間だった。 「ピィン……」という微かな電子音とともに、分厚い金属の扉が、まるで最初から存在しなかったかのように音もなく消滅したのだ。

(空間そのものを操作しているのか……)

間宮は驚愕を押し隠し、その先へと足を踏み入れた。 そこは、天井が遥か高くかすむほどの巨大な広間だった。重力が地球上とは異なり、足取りが不気味なほど軽い。壁には幾つもの蝸牛(かたつむり)のような形状の模様が点滅し、呼吸をするように規則正しく伸び縮みしている。

そして、広間の中央。 間宮の目は、そこに鎮座するものに釘付けになった。

「チク……タク……」

巨大な振り子のようにも、複雑な構造物の集合体のようにも見える青白い機械。その中心にはめ込まれた巨大な水晶体が、すさまじい高次元のエネルギーを放ちながら、脈打つように点滅している。

あまりの冷気に、間宮の吐く息が真っ白に凍りついた。

(計時装置……。世界の不確実性を殺す、時計……)

失われていた記憶の底蓋が、その装置を見た瞬間に激しく軋んだ。 間宮は無意識のうちに、ポケットの中の「削れたカード」を強く握りしめた。その瞬間、カードと計時装置が共鳴したかのように、水晶体の青い光が微かに、しかし確かに赤く明滅した。

その異変に、広間の奥で何かの調整を行っていた純白のスーツの男——海老名が弾かれたように振り返った。

「誰だ! そこで何をしている!」

海老名の鋭い声が、冷たい地下広間に反響した。