観察者-9

第7章:追撃のレンズ

息を白く染める真冬の東京。 新宿の巨大な交差点で、間宮は足早に行き交う群衆の中に紛れていた。

夏の酷暑が嘘のように、凍てつくようなビル風が吹き抜けていく。間宮はすり切れたコートの襟を立て、周囲を見回した。 かつて「傍観者」として何年も世界を放浪していた頃、街の風景はただの背景でしかなかった。しかし今、彼の肌はチリチリとした焦燥感に焼かれている。

(……見られている)

信号機の上にある交通監視カメラ。すれ違う若者が手に持つスマートフォンのレンズ。ビルの壁面を覆う巨大なデジタルサイネージのセンサー。 あらゆる電子の目が、一斉に自分に焦点を合わせているような、不気味な圧迫感。

間宮はポケットの中の「削れたカード」を強く握りしめた。 そのザラついた感触が指に触れるたび、あの赤い星——火星の記憶がフラッシュバックする。

争いも、飢餓も、予測不能な事故もすべて排除された「完全な社会」。 だが、完璧な安全と予測可能性を与えられた火星の住人たちは、やがて喜怒哀楽を失い、進化への渇望を失い、ただ静かに死を待つだけの「生きた屍」と化した。完璧な秩序は、究極の停滞であり、死そのものだったのだ。

間宮は、自らの手で滅ぼしてしまったその星の最後のデータ(墓標)たるカードを握り、地球へと逃げてきた。 「もう二度と、あの時計を動かしてはならない」 間宮の瞳に、傍観者としての虚無ではなく、明確な意志の光が宿り始めていた。


『対象を発見しました。現在地、日本・東京、新宿区。地下鉄のコンコースへ向かっています』

地球の裏側、ワシントンD.C.の地下バンカー。 大統領・長友の網膜デバイスに、AIトリムからの緊急アラートが飛び込んできた。NSA(国家安全保障局)の顔認証ネットワークが、雑踏の中からあの「ボロボロの服を着た男」を割り出したのだ。

長友は執務室の巨大ディスプレイに、新宿の監視カメラの映像を複数展開した。 「見つけたぞ、神々のバグを。トリム、対象の周囲の通信トラフィックを解析しろ。ペンタグラム(特権階級)の連中も、こいつを血眼になって探しているはずだ」

『解析中……。長友さん、対象の半径50メートル以内で、特権階級のシステム特有の「空間同期アルゴリズム」による異常なデータスパイクを検知しました』

長友の目が鋭く細められた。 映像の片隅、間宮の背後から群衆を掻き分けて近づく「不自然な影」があった。 黒いコートを深く羽織り、足音一つ立てずに滑るように歩く男。その顔には一切の感情がなく、瞳孔は機械のように無機質に収縮している。

「海老名が放った猟犬(クリーナー)か」長友は低く呟いた。「世界最強のNSAの監視網と、ペンタグラムの暗殺部隊。究極の鬼ごっこの始まりだ」


地下鉄の改札を抜け、間宮はホームへと続く階段を下りていた。 その時、背後の空気が「重く」なった。

通常の気圧変化ではない。局地的な重力異常と、時間の流れが泥のように遅くなる感覚。海老名が地下広間で使ったのと同じ、特権階級の「空間制御」だ。

周囲を歩いていたサラリーマンや学生たちの動きが、スローモーションのように鈍くなっていく。喧騒が遠のき、世界がモノクロームに染まる中、階段の上から黒いコートの男——猟犬が、通常の速度で間宮に向かって飛び降りてきた。 その右手には、空間そのものを切断する不可視の高周波ブレードが握られている。

(消しに来たか……!)

猟犬の刃が間宮の首筋に迫る。 間宮は反射的に、右ポケットから「削れたカード」を引き抜き、猟犬の刃に向けて突き出した。

——ガッ!!

カードから赤い光が漏れ出した瞬間、猟犬を包んでいた「時間と重力の制御フィールド」が、ガラスが割れるように粉々に砕け散った。 絶対的な時間の流れに、火星の「停止した時間」のデータが物理的に衝突し、矛盾を引き起こしたのだ。

「……!?」 機械的な猟犬の顔に、初めてエラーによる硬直が走る。 制御を失った猟犬はバランスを崩し、間宮の横をすり抜けてコンクリートの壁に激突した。

その瞬間、止まっていた周囲の時間が一気に本来の速度を取り戻した。 「危ないな!」「何だ今の音?」 突然壁に激突した黒コートの男を見て、群衆がパニックを起こし、悲鳴が上がる。

間宮はその混乱に乗じ、滑り込んできた地下鉄の車両に飛び乗った。 プシューッとドアが閉まり、電車が冷たい風を巻き起こしながら暗いトンネルへと吸い込まれていく。間宮は窓ガラス越しに、ホームで機能停止し、群衆に取り囲まれている猟犬の姿を冷ややかな目で見下ろした。


「ハッ、ハッ、ハ!」

ワシントンD.C.の地下深くで、大統領・長友の歓喜の笑い声が響き渡った。

「見たかトリム! あのカードだ! あいつがカードを突き出した瞬間、海老名たちの絶対時間が完全にバグを起こして砕け散った!」

ディスプレイには、監視カメラが捉えた先ほどの衝突の瞬間が、何度もリプレイされている。特権階級の絶対的な力である「時間制御」を無効化する、信じられない代物。

『対象の逃走経路を追跡しますか?』 トリムの問いに、長友は目を輝かせて頷いた。

「ああ。だが、捕獲はするな。泳がせろ」
長友は、極上のワインを味わうように映像を見つめた。
「あの男が特権階級のネットワークをかき乱せばかき乱すほど、奴らの防壁に綻びが生じる。俺たちはその綻びの裏側に潜り込み、奴らの根源的なコードを盗み出すんだ。彼には、最高の囮になってもらおう」

地下鉄に揺られながら、間宮は荒い呼吸を整えていた。 もはや、ただの傍観者として逃げ隠れすることはできない。自分が生きている限り、特権階級は何度でも猟犬を差し向けてくるだろう。 そして、この世界を「火星と同じ轍」を踏ませないためには、彼らの心臓部である計時装置を完全に破壊するしかない。

狩られる側から、狩る側へ。 間宮の長く孤独な放浪は終わり、反撃の時が静かに動き出そうとしていた。