第1章 観察者
【観察者:長友】
ふと見下ろすと、薄暗いビルの谷間を、一人の男が歩いていた。
地上数百メートル。超高層ビルの最上階にあるこのオフィスからは、地上の人間など豆粒ほどの存在にすぎない。だが、長友の目は、その男の奇妙な足取りに吸い寄せられた。
狂ったような夏の陽射しの中、誰もが逃げるように早足で歩く路上で、その男だけが散歩でもするかのように悠然としている。
長友は手元のコンソールを操作し、高倍率カメラの焦点を合わせた。
巨大な壁面ディスプレイに、男の背中が映し出される。男は、ある一角でふっと足を止めたかと思うと、蜃気楼に溶けるように姿を消した。
「……消えた?」 ビルに入ったのだろうか。だが、あそこにあるのは「入口のないビル」だ。
長友は興味を惹かれた。退屈な神の視座から見る下界で、久しぶりに不可解なバグを見つけた気分だった。
【傍観者:間宮】
夏の盛りだった。
アスファルトから立ち昇る熱気が、視界を油絵のように歪ませている。
間宮は額に滲む汗を拭いもせず、目的の場所を探して歩いていた。
涼むためにビルに入ろうとしたのではない。何かに引かれるように、ここまで来たのだ。
目の前には、灰色のビルがそびえ立っている。奇妙な建物だった。周囲のビルがガラス張りで現代的なのに対し、それはのっぺりとしたコンクリートの塊で、墓標のように静まり返っている。
そして、入口が見つからない。
「都会の陽炎(かげろう)に消えたか……」
間宮は呟いた。
地上に入口がないのなら、地下か。
足元のコンクリートからは、フライパンの上のような熱が伝わってくる。
年々、夏は酷くなる一方だ。地球温暖化という言葉だけでは説明がつかない、何か世界そのものが熱を帯びて軋んでいるような感覚。
間宮はその熱の中に立ち尽くし、拒絶するように閉ざされた灰色の壁を見上げた。

【観察者:長友】
超高層ビルから見る風景に、本来、目新しいものなどない。見慣れれば、それはただの「壁紙」だ。
長友は、自動追尾させたカメラの映像を眺めながら、冷えたビールを一口飲んだ。 観察システムは優秀だ。画像だけでなく、指向性マイクが地上の音さえも拾い上げる。今は、遠くの救急車のサイレンと、タイヤがアスファルトを噛む音が、BGMのように流れている。 彼はカメラのジョイスティックを倒し、先ほど男が消えたあたりを探索させた。
壁にあるディスプレイに、灰色のビルが映る。入口はない。窓もない。
昼間、男が吸い込まれたように見えた場所。
「変わったビルだ」長友の記憶の底にある、何かが引っかかった。
のっぺりとした外見だが、どこか人工的すぎる。
まるで、「ビルに見せかけた何か」であるかのように。
(続く)

