第22話:マーク・アンド・スイープと、剥落する日常
脳波計のケーブルを引き抜いた哲也の足元に、改造ヘッドセットが力なく転がり落ちた。
研究室の空気は、先ほどまでの「日常」とは完全に変質していた。
涼はデスクに両手をつき、荒い息を吐きながら、信じられないものを見るように自分の手のひらを見つめている。佳奈は哲也の手を握りしめたまま、その場にへたり込み、ボロボロと大粒の涙をこぼしていた。
悲しみの涙ではない。
圧倒的な絶望の海(虚無のフォーマット領域)を乗り越え、宇宙の管理者の喉元まで迫り、そして――愛する世界を救うために自らの手で「すべてをリセットした」という、壮絶な記憶の重量に押し潰されそうになっていたのだ。
「思い、出した……。全部、思い出したぞ……!」
涼が、ゲーミングチェアを蹴り飛ばして叫んだ。
「俺たちは、あの地下のテッセラクト(特異点)で、教授の論理爆弾(パラドックス)を使ってシステムをフリーズさせた。そして、カーネルパニックによる宇宙の完全崩壊を防ぐために……お前が、再起動(Reboot)のコマンドを叩き込んだ!」
「ああ。システムは正常なセーブデータまでロールバックした。僕たちの記憶もフォーマットされるはずだった」
哲也は、震える手でホワイトボードの前に立ち、黒のマーカーを握った。
「だが、直前にカーネル深層へ書き込んだ『ウイルス(覚醒のメッセージ)』が、未割り当て領域(キャッシュ)に残っていた。それが今の強烈なデジャヴと量子もつれを引き金にして、僕たちの意識のバックアップを復元(リストア)したんだ」
「哲也……っ、私たち、また戻ってきちゃったのね……」
佳奈が、涙を拭いながら立ち上がった。
「この、冷たい作られた世界(シミュレーション)に……」
「だが、今度は丸腰じゃない」
哲也の眼には、かつての迷いや絶望は完全に消え去っていた。
「僕たちは、システムの正体も、監視の抜け穴も、そして『管理者権限(Root)』の場所も知っている。僕たちの意識(バグ)がシステムを凌駕できることも証明済みだ」
その時だった。
「……おい、哲也」
自分のパソコンのモニターに目を落とした涼の声が、微かに震えていた。
「俺の……実験データが」
「データがどうした?」
「消えてる……。いや、違う。クラッシュしたんじゃない」
涼は、キーボードを猛烈な速度で叩き、ディレクトリの階層を潜っていく。
「俺が過去三年間で蓄積した、加速器の衝突実験のログファイル群だ。ファイルそのものは存在している。だが、容量が……ギガバイト単位から、目の前で『0バイト』に書き換えられているんだ!」
哲也は血相を変えて涼のモニターを覗き込んだ。
ターミナル画面に表示されたファイルリストのサイズが、上から順番にパラパラと「0」に変わっていく。ハードディスクの物理的な故障ではない。OSレベルの権限を持った何者かが、バックグラウンドで静かに、そして確実に「中身だけ」をNull(無)で上書きしているのだ。
「涼くん! 私のスマホも……!」
佳奈が、青ざめた顔で自分のスマートフォンの画面を哲也に向けた。
メッセージアプリの画面。
そこには、佳奈の母親とのやり取りが表示されていたはずだった。しかし今、母親からのメッセージの吹き出しが、一つ、また一つと、音もなく消滅していく。
慌ててアドレス帳を開くと、「お母さん」という登録名自体が、ノイズとともにリストからスッと消え去った。
「電話が……繋がらないの。『現在使われておりません』って……。私、お母さんの実家の固定電話の番号すら、思い出せなく……なって……」
佳奈の瞳に、極限の恐怖が浮かんだ。
「サイレント・デリート(静かなる削除)だ……!」
哲也はホワイトボードに駆け寄り、情報工学におけるメモリ管理のアルゴリズムを図示した。
「前回の世界で、システムは僕たちを物理的に排除しようとして、猟犬(アンチ・ウイルス)を放ったり、空間を丸ごとフォーマットしたりと、派手な実力行使に出た。だが、それは僕たちの強烈な『観測の共有(量子もつれ)』に阻まれ、結果的にシステム自身に過負荷(カーネルパニック)をもたらしてしまった」
哲也のマーカーが、ネットワーク理論のグラフを描き出す。
宇宙を巨大なネットワークグラフ と見なす。ここで、 はすべての変数(人間や物体)、 はそれらを結ぶ関係性(エッジ)だ。
「だからシステムは、学習したんだ。僕たちというバグ を直接削除して論理エラー(パラドックス)を起こす前に……僕たちと世界を繋いでいる『関係性のエッジ()』を、先にすべて切り落とすことにしたんだ!」
「関係性を、切り落とす……?」涼が息を呑む。
「プログラミング言語における『マーク・アンド・スイープ(Mark-and-Sweep)』というガベージコレクションの手法だ」
哲也は、グラフの中で哲也たちを示すノードから伸びる線を、次々とバツ印で消していった。
「システムは定期的に、ルート(Root)から辿れるすべての『有効なデータ』にマークをつける。そして、どこからも参照(リンク)されていない孤立したデータを『不要なゴミ』と見なして、安全にメモリからスイープ(消去)する」
哲也は、完全に線が途切れて孤立した三つのノードを丸で囲んだ。
「システムは今、僕たちを『孤立した変数(Dangling Pointers)』にしようとしている。涼の研究データ、佳奈の家族との繋がり、僕の戸籍……そういった、世界からの『参照(リンク)』を、矛盾が起きない範囲で少しずつ、静かにデリートしているんだ」
それは、猟犬に追われるよりも遥かに恐ろしい、実存への静かなる死刑執行だった。
すべての繋がり(エッジ)が切断された瞬間、彼らはこの宇宙において「初めから存在しなかったデータ」として、何のエラーも引き起こすことなく安全に『スイープ(完全消去)』されてしまう。
「ふざけるな……! 俺の、俺が血反吐を吐いて集めたデータを、ただの『参照リンク』扱いして消す気かよ!」
涼は、0バイトになっていくファイルを必死にバックアップしようとキーボードを叩くが、コピー先のUSBメモリの容量すらも、システムによってリアルタイムで上限を書き換えられ、保存が弾かれてしまう。
「涼、無駄だ! システムのRoot権限に直接干渉されている以上、ローカルの保存領域(ハードディスク)での抵抗は意味がない!」
哲也は、窓の外を見た。
雨は降っていた。しかし、先ほどまでの「轟音」がしない。
窓の外の東京の風景が、まるでテレビのミュートボタンを押されたように、不気味なほどの無音に包まれていた。
通りを歩く人々の輪郭が、少しぼやけている。
システムが、彼ら三人の視覚・聴覚に送る「世界側のレンダリング解像度」を、徐々に下げ始めているのだ。世界が、彼らを『外部の異物』として切り離しにかかっている。
「哲也……私、怖い。お母さんの顔が、どんどん思い出せなくなっていく……!」
佳奈が両手で頭を抱え、しゃがみ込んだ。
「佳奈、思い出すんだ! 僕たちの意識の同調(量子もつれ)だけは、システムにも切断できない! 僕たちが互いを強く観測し合う限り、完全な『孤立』にはならない!」
だが、哲也自身も背筋に氷のような悪寒を感じていた。
前回の世界のような「派手なバグ」がない分、システムのこの静かなる排除プロトコルは、恐ろしいほど洗練され、無慈悲に進行している。
このまま研究室に引きこもって互いを観測し続けても、いずれ寿命(リソース切れ)が来るか、精神が摩耗してリンクが切れた瞬間にデリートされるだけだ。
「……動くぞ」
哲也は、白川教授のデスクの前に立ち、引き出しを乱暴に開け放った。
「動くって、どこへ! 世界中のデータが俺たちを拒絶し始めてるんだぞ!」
「前回の記憶を思い出せ。システムが教授の意識を閉じ込めていた隔離領域(サンドボックス)。あれは崩壊したが、教授は僕に『Root(管理者権限)』へアクセスするためのキーを託したはずだ」
哲也の視線が、引き出しの奥で鈍く光る「ある物体」を捉えた。
それは、ロールバックされたこの世界においても、物理的な質量を持ってそこに存在していた。
「USBメモリ……!」
涼が目を見開いた。
「量子情報として僕の意識の深層に焼き付いていた『教授のログのハッシュ値』が、この世界でもオブジェクトとして具現化(インスタンス化)されている」
哲也は、古びたUSBフラッシュメモリをしっかりと握りしめた。
「システムが僕たちへの『参照(リンク)』をすべて切断し終えるのが先か。僕たちが再びあの巨大地下施設(重力の井戸)に潜り込み、Rootに直接このウイルスを叩き込むのが先か。」
哲也は、震える佳奈の腕を引き、涼と力強く頷き合った。
静かに、しかし確実に崩壊(スイープ)していく日常のキャンバスの中で。三人の観測者は、宇宙の特権管理者から自らの「存在証明(ポインタ)」を取り戻すため、再び反逆の道へと歩み出した。

