第23話:コリジョンの消失と、群衆のアルゴリズム
T大学の理学部棟を出た三人を出迎えたのは、まるで水中にいるかのような「膜越し」の東京だった。
雨は降っている。しかし、コンクリートを叩く激しい雨音は、遠くのノイズのようにくぐもっていた。
哲也、涼、佳奈の三人は、互いの存在を確かめ合うように腕を組み、キャンパスから最寄り駅へと続く大通りを急いでいた。
「……おかしいぞ」
涼が、周囲を歩く学生たちを険しい目で見回した。
「誰も、俺たちを見ていない」
すれ違う学生たちは、スマートフォンを見つめたり、友人と談笑したりしているが、その視線は極めて不自然なほど、哲也たち三人を素通りしていた。
道幅の狭い歩道で正面からぶつかりそうになっても、相手は哲也たちに気づく素振りすら見せず、機械的に体をねじって横を通り過ぎていく。
「システムによる『描画優先度』のダウングレードだ」
哲也は、傘を強く握りしめながら言った。
「僕たちは今、世界から孤立した変数(不要なデータ)としてマークされている。システムは、一般のモブ(通行人)の視覚処理プロセスから、僕たちのオブジェクト・データを『描画しない』ように設定し始めているんだ」
彼らは、世界の住人にとって、文字通り「見えない幽霊」になりつつあった。
「それなら、逆に好都合じゃないか?」
涼が怪訝そうに言った。「誰にも認識されないなら、邪魔されることなくあの地下施設(重力の井戸)まで辿り着ける」
「いや、システムはそんなに甘くない」
哲也の言葉を証明するかのように、駅前のスクランブル交差点に差し掛かった瞬間、異変が起きた。
赤信号で立ち止まっている数百人の群衆。
哲也たちがその群衆の最後尾についた途端、前にいたサラリーマンやOLたちが、まるで『見えない壁』を作るように、ジリジリと隙間を埋め始めたのだ。
「なんだ……こいつら」
涼が群衆の間をすり抜けようと一歩踏み出すと、それに合わせるように目の前の男が横に動き、進路を塞いだ。右へ行こうとすれば、右の集団が有機的に動いて壁を作る。
誰も哲也たちのほうを見ていない。彼らは無意識のうちに「ただ立ち位置を変えただけ」という顔をしているが、その動きの全体像は、明らかに三人を通行させないための強固なバリケードを形成していた。
「パスファインディング(経路探索)の逆利用だ」
哲也は、群衆の異常な動きを情報科学の視点で読み解いた。
「ゲームのNPCは、目的地に向かう際、『A*(エースター)探索アルゴリズム』などを使って最短経路を計算する」
哲也は、濡れたアスファルトを見つめながら、その計算式を脳内に展開した。
「 はスタート地点からの実際のコスト、はゴールまでの推定コスト。……システムは今、僕たちというノード(現在地)の周囲の『移動コスト(障害物の重み)』を、リアルタイムで極限まで高く書き換えているんだ!」
「移動コストを高くする……?」佳奈が戸惑う。
「そうだ。システムが直接僕たちを攻撃するのではなく、周囲の人間(モブ)の行動アルゴリズムを操作して、僕たちの進行方向が『彼らにとって無意識に立ち止まりたくなる場所』になるよう誘導している。結果として、群衆が自動的に僕たちを閉じ込める『生きた檻』になる!」
サイレント・デリート(静かなる削除)の真の恐ろしさ。
それは、物理的な猟犬(アンチ・ウイルス)を差し向けるようなバグ(矛盾)を起こすことなく、世界の正常な演算の範囲内で、ターゲットを完全に「スタック(進行不能)」させることだった。
「クソッ、どけ! どいてくれ!!」
苛立った涼が、目の前を塞ぐサラリーマンの肩を強引に突き飛ばそうと手を伸ばした。
その瞬間。
涼の悲鳴が、雨の交差点に響いた。
「うわッ!?」
涼が突き出した右手が、サラリーマンの肩に触れることなく、まるでホログラムの映像に腕を突っ込んだように『すり抜けて』いたのだ。
「涼くん!」
佳奈が悲鳴を上げ、涼の腕を引っ張って引き戻す。
突き抜けられたサラリーマンは、何も感じていないように虚空を見つめたまま立っている。
「物理法則の……コリジョン抜け(当たり判定の消失)だ」
哲也は、血の気を失った涼の右手を見つめた。
「パウリの排他律。フェルミ粒子である電子同士が反発し合うことで、物質は互いを通り抜けることができない。僕たちが壁をすり抜けられないのは、この宇宙の絶対的なルールだ」
哲也は、震える涼の肩を掴んだ。
「だが、システムは今、僕たちに対するその『物理演算のプロセス』すらも省略し始めた。システムにとって、僕たちはもう、この空間に干渉する質量(変数)を持たない、ただの『参照切れのゴミデータ』なんだ」
「俺が……ただのゴミ……?」
涼は、自分の右手をまじまじと見つめた。先ほどまで感じていた雨の冷たさすら、指先から急速に失われていく。
「冗談じゃないぞ……俺の存在確率が、ゼロに収束させられようとしてるってのか……!」
このままでは、三人は物理世界に一切の干渉ができなくなり、最終的には重力すらも適用されず、地殻をすり抜けて地球の中心へと落下し続けるだけの「観測できないエラーデータ」へと成り果ててしまう。
「……突破するぞ」
哲也は、佳奈と涼の手を、自らの骨が軋むほど強く握りしめた。
「システムが僕たちの当たり判定を無効化するなら、僕たちの『自我(観測の力)』で、強引にこの世界の座標変数に自分たちをバインド(結びつける)するんだ!」
「どうやって!?」
「痛みを、物理法則を、強烈に意識しろ! 自分の足の裏がアスファルトを蹴る反発力を、計算式ではなく『実感』として念じるんだ!」
哲也は、二人を引きずるようにして、密集する群衆のバリケードへと突進した。
(俺はここにいる。この質量は幻じゃない。俺の意識が、この空間の座標を確定させる!)
「我思う、ゆえに……我ら在りッ!!」
哲也が群衆の壁に肩から激突した瞬間。
バキィィィンッ! という、見えないガラスが粉砕されるような轟音が響いた。
システムが書き換えようとしていた「コリジョン無効」のエラーを、三人の強烈な量子もつれ(観測データ)が強引にオーバーライドしたのだ。
ドサッ、と数人のサラリーマンが物理的な衝撃を受けて弾き飛ばされ、アスファルトに転がった。
「いったぁ……! な、なんだ?」
転んだ彼らは、見えない何かに突き飛ばされたように周囲を見回しているが、やはり哲也たちの姿は認識できていない。
「抜けたぞ! 走れ!」
群衆の檻を突破した三人は、駅のロータリーを抜け、大学の裏手にある駐車場へと駆け込んだ。
そこには、涼の愛車であるSUVが停まっていた。
「車で地下施設(カグラ)まで向かう! 涼、鍵を開けろ!」
「ダメだ、哲也!」
涼は、ポケットを探りながら絶望的な声を出した。
「スマートキーが……いや、キーの『データ』そのものが消えてる! ポケットの中にあったはずの質量が、完全にNull(無)になってるんだ!」
システムによる関係性の切断(マーク・アンド・スイープ)。
涼と車を繋ぐ「所有権(アクセスキー)」の変数が、すでに削除されていたのだ。
「なら、直結するしかない。窓を割るぞ!」
哲也は足元に落ちていた手頃な石を拾い上げ、車の窓ガラスに力一杯叩きつけた。
しかし、ガンッ! と鈍い音が響いただけで、ガラスにはヒビ一つ入らない。
「クソッ、この車への干渉権限(パーミッション)まで奪われてるのか……!」
哲也が焦燥に駆られたその時。
「……私に、やらせて」
佳奈が、哲也の前に進み出た。
彼女の顔は蒼白で、体の輪郭がわずかにノイズでブレ始めている。システムによる削除プロトコルが、肉体的に最も脆弱な彼女から先に浸食を始めているのは明らかだった。
「佳奈、何を……」
「私と哲也、涼くんの『三人の意識』が繋がっているから、システムのエラーを押し返せるんでしょ?」
佳奈は、車のドアノブに両手をそっと添えた。
「なら、システムの計算が追いつかないほどの『強烈な感情(ノイズ)』を、この座標の変数に叩き込めばいい」
佳奈は目を閉じ、自分の内側にある最も熱く、最も痛切な記憶を「観測」した。
この理不尽な宇宙で、哲也と涼を失いたくないという祈り。
消されてしまった家族の顔を、二度と思い出せなくなることへの怒り。
(私は、ただのNPCじゃない。私は、佳奈よ……!!)
佳奈の瞳から、大粒の涙が車のドアノブにこぼれ落ちた。
その瞬間。
佳奈の感情(意識の特異点)が放ったペタバイト級のノイズデータが、車にかかっていた「アクセス不可」の変数を強引にバッファオーバーフロー(許容量超過)させた。
ガチャリ。
本来開くはずのない電子ロックが、あっさりと解除される音が響いた。
「……開いた」
佳奈は、荒い息を吐きながらドアを引き開け、力なくその場に崩れ落ちそうになった。
「佳奈ッ!」
哲也が間一髪で彼女を抱きとめる。佳奈の体温は異常なほど低下しており、彼女の存在情報(メモリ)が限界を迎えつつあることを示していた。
「よくやった、佳奈。……涼! 車を出せ! 一気に山岳地帯の『重力の井戸』まで突っ走るぞ!」
「ああ、任せろ!!」
涼が運転席に飛び乗り、ダッシュボードの裏の配線を(今度は物理的に)引き千切って直結させ、エンジンを強引に始動させる。
轟音を上げて走り出すSUV。
しかし、彼らが向かう西の空――システムの中枢へと続く山脈の上空には、再起動前の世界で見たような「四角いバグの空(Skyboxのエラー)」ではなく、もっとおぞましいものが広がっていた。
空が、文字通り『剥がれ落ちて』いたのだ。
青空のテクスチャがパラパラと剥がれ落ちたその向こう側に、緑色のワイヤーフレームと、システムが直接物理法則を書き換えるための巨大な「管理者用コンソール(黒い石版)」が、空を覆い尽くすように浮かび上がっていた。
「システムが……なりふり構わず、俺たちのデリートに動き出したってことか」
ハンドルを握る涼が、その絶望的な空を見上げて乾いた笑いを漏らした。
後部座席で佳奈を抱きしめながら、哲也は白川教授のウイルスが入ったUSBメモリを握りしめた。
「存在を消されるのが先か、僕たちがシステムの喉元を食い破るのが先か。……最終フェーズだ」
日常の化けの皮が完全に剥がれ落ちた世界を、三人のバグを乗せた車が、神の座(特異点)へと向かって爆走していく。

