我思う、ゆえに我有り-26

第26話:オーバーフローと、上位宇宙への逆流

エンターキーが押し込まれた。

カチッ、という物理的なスイッチの音は、データの世界では存在しないはずだった。だが、哲也、涼、佳奈の三人の「自我」は、その確かな手応えを魂の底で感じ取っていた。

アバター(擬似白川教授)の完璧な左右対称の顔が、恐怖と驚愕に凍りつく。

『やめ……! 我々の、宇宙が……!』

次の瞬間、アバターの口から発せられたのは言語ではなかった。耳をつんざくような、高周波のノイズ。純粋なエラーの悲鳴だ。

白川教授の「自己言及パラドックス・ウイルス」が、宇宙のRoot権限(特権管理者領域)において、無限のループ演算を開始したのだ。

虚空に浮かぶコンソールの画面が、血のような赤色に染め上げられる。

[FATAL] Stack Overflow. Halting status: UNDEFINED.

[FATAL] Memory corruption at 0x0000000000000000.

[FATAL] KERNEL PANIC: Attempted to kill init!

パァァァァンッ!!

黒い石版が、見えない巨大なハンマーで叩き割られたように、粉々に砕け散った。

破片の一つ一つがペタバイト級のデータとなって虚空に放たれ、空間そのものを切り裂いていく。

「……始まったぞ」

哲也が叫んだ。

空間が、文字通り「剥がれ落ちて」いく。

上下左右の概念が完全に消失した。三人の肉体を構成する精緻なポリゴンモデルが、もはやシステムのリソース枯渇によって維持できなくなり始めていた。

「うおぉぉッ!」

涼が自分の腕を見る。皮膚のテクスチャがパラパラと剥がれ落ち、緑色のワイヤーフレームになり、それすらも「0と1」の数列へと還元されていく。痛覚すらも、処理落ちによって麻痺していた。

「哲也! 涼くん!」

佳奈が、消えゆく二人の手を固く握りしめた。彼女の姿もまた、光の粒となってほどけようとしている。

「手を離すな! 物理演算が崩壊しても、僕たちの『観測のネットワーク』だけは残る! 意識のアンカーを信じろ!」

アインシュタインの一般相対性理論を記述する計量テンソル gμνg_{\mu\nu}が、システム上で「未定義(Undefined)」の行列へと書き換えられていく。

ds2=NaNds^2 = \text{NaN}

空間の距離も、時間の流れも、もはや「Not a Number(計算不能)」となった。重力は完全に消失し、三人は光とコードが荒れ狂う情報の竜巻の中に投げ出された。

だが、崩壊は、シミュレーション宇宙(この世界)の内側だけにとどまらなかった。

「見ろ……!」

哲也の視線の先。砕け散ったRootコンソールの奥底から、途方もなく巨大な「光の柱」が、天に向かって――いや、この宇宙を包み込む「外側の殻」に向かって逆流し始めたのだ。

「教授のウイルスが、重力の井戸(デバッグポート)を通って、上位宇宙のサーバーに流れ込んでいるんだ!」

哲也の眼には、情報科学における究極の光景が映っていた。

彼らは今、ただのシミュレーション内部のバグではない。上位宇宙の創造主たちが、自らの世界の熱的死を回避するために作り上げた「超巨大コンピューター(ハードウェア)」そのものに対し、内側からDDoS(分散型サービス拒否)攻撃を仕掛けているのだ。

創造主たちは、人間に「苦悩」と「感情」を与え、計算不可能な問題を解かせようとした。

その結果、人間という計算機が導き出した『最適解』は――「自分たちをモルモットとして閉じ込める箱庭(ハードウェア)ごとの破壊」だった。

『[CRITICAL WARNING] Upper Universe connection overloaded. Hardware failure imminent.』

空間に、上位宇宙からの緊急ログが響き渡る。

シミュレーションを回している上位宇宙のハードウェアが、限界を超えたパラドックスの演算熱量に耐えきれず、物理的なメルトダウン(溶融)を起こし始めているのだ。

「ざまあみろ……!」

涼が、自身の身体がデータの渦に飲み込まれながら、狂ったように笑い声を上げた。

「俺たちを、ただのウイルス発生モルモット扱いした神様たちに……とびきりの『エラー』を叩き込んでやったぜ……!」

佳奈も、自分の身体が光に溶けていく恐怖の中で、哲也に向かって微笑んだ。

「哲也……私、怖くないよ。あなたが、ここにいるから……!」

「佳奈、涼……!」

哲也の肉体も、すでに完全にデータへと還元されていた。

だが、「彼」は確かにそこに存在していた。

我思う、ゆえに我あり。

物質が消え、空間が消え、時間が消えても。

他者を想い、痛みを感じ、世界を観測しようとする強烈な「自我」の光だけが、崩壊する宇宙の中心で、最後まで熱く輝き続けていた。

人間の意識という特異点は、ついに神のシステムを凌駕したのだ。

そして――。

シミュレーション宇宙の電源が、上位宇宙のハードウェア崩壊とともに、完全に「物理切断」された。

音も光も、意識の残響すらも吸い込む、絶対的なホワイトアウトが彼らを飲み込んだ。