我思う、ゆえに我有り-28

第28話:ゼロ点エネルギーと、天地創造のコンパイル

絶対零度に限りなく近い、上位宇宙の死にゆく暗黒。

その虚無空間に漂う三つの「意識(データ)」は、もはや物理的な質量を持たない、純粋な情報生命体へと変貌していた。

「宇宙を創るって……具体的にどうするんだ? パソコンの新規フォルダを作るのとは訳が違うぞ」

涼の思念が、焦燥を帯びてネットワークに響く。

「俺たちは今、サーバーの外に放り出されたただの電波みたいなもんだ。新しい宇宙(シミュレーション)を走らせるための『ハードウェア(物理的な基盤)』がないじゃないか!」

「ハードウェアなら、ここにある」

哲也の意識が、彼らを包み込む広大な暗黒――上位宇宙の「真空」そのものを指し示した。

「量子場理論において、真空は『何もない空間』じゃない。粒子と反粒子が、絶えず生まれては対消滅を繰り返している、エネルギーの沸騰する海だ」

哲也の概念アバターから、一つの基礎方程式が放たれた。

E=12ωE = \frac{1}{2} \hbar \omega

「量子力学的な調和振動子の基底状態。……ゼロ点エネルギー(Zero-Point Energy)だ。上位宇宙がどれほど熱的死(ヒート・デス)に近づき、エントロピーが最大化してすべての星が冷え切ろうとも、この空間の底に眠る『最低限のエネルギー』だけは絶対に消滅しない」

哲也は、眼下に漂う黒焦げの超巨大コンピューター(旧宇宙の残骸)を見下ろした。

「あの箱庭の管理者たちは、このエネルギーを抽出する計算式が解けなかった。だが、僕たちならできる。僕たちの強烈な『自我(バグ)』を特異点として、この上位宇宙のゼロ点エネルギーを一点に集束(コンパイル)させ、新たなビッグバンを起こすんだ!」

「真空から宇宙をレンダリングするってのか……狂ってる。だが、最高に物理学者らしいアプローチだ」

涼の意識が、獰猛な笑みを浮かべるのが伝わってきた。

「いいだろう。俺が、新しい宇宙の『物理定数(パラメーター)』を再定義してやる。重力定数、光速度、プランク定数……二度とあんなバグだらけの監視社会にならないよう、完璧な物理エンジンを設計してやるよ」

涼の意識領域から、凄まじい速度で数式とコードの羅列が溢れ出し、光の幾何学模様となって暗黒の空間に骨組み(フレームワーク)を構築し始めた。

それは、彼が三十年間の実験物理学の人生で培ってきた、宇宙の真理に対する完璧な理解と「理想の現実」の設計図だった。

「涼くんが『器(システム)』を作るなら、私は『中身』を探す!」

佳奈の意識が、眼下の巨大な残骸――旧宇宙のハードウェアの破片へとダイブした。

「佳奈! 何をする気だ!」

「ファイルカービング(File Carving)よ!」

佳奈の思念が、暗闇の中で温かい光を放つ。

「OSがクラッシュしてインデックス(目次)が吹き飛んでも、データの実体はまだあの残骸のセクタに焼き付いているはず! お父さんも、お母さんも、白川教授も、渋谷の交差点で消された人たちも! 私が、みんなの『生きていた痕跡(パターン)』を見つけ出して、新しい宇宙にサルベージ(救出)する!」

佳奈は物理学者ではない。ハッカーでもない。

しかし彼女には、システムの論理を凌駕する強烈な「他者への共感(量子もつれ)」があった。彼女の意識は、論理的な検索ではなく、感情という名のソナーを使って、広大なデブリの海から『愛しいノイズ』を拾い上げ始めた。

『……見つけた! 教授の論理爆弾の残骸! その奥に……教授の自我のキャッシュデータがある!』

佳奈の光が、旧宇宙のカーネルの底から、擦り切れた「革張りのノート」の概念データを引きずり出す。

『渋谷の人たちも! お母さんたちの笑顔のデータも! 全部、私が掴んで離さないから!』

何十億、何百億という「失われた命のログ」が、佳奈の意識をアンカー(錨)にして、光の奔流となって上位宇宙の空間へと吸い上げられていく。

「……信じられない。ただの一般人が、ペタバイト級のデータ群を感情のアルゴリズムだけで復元している……!」

涼が、その神々しい光景に圧倒されながら、物理エンジンの最終コンパイルを進める。

「彼女の『愛』が、宇宙の検索エンジンになっているんだ」

哲也は、涼が構築した真新しい物理法則のフレームワークと、佳奈がサルベージした莫大な魂のデータを、自らの「管理者権限(Root)」の中心へと繋ぎ合わせた。

「さあ、哲也! 器はできた! 俺たちの新しい現実だ!」

「データも全部揃ったよ! いつでもいける!」

涼と佳奈の意識が、哲也の自我と完全に同調(エンタングル)する。

上位宇宙の真空から抽出された莫大なゼロ点エネルギーが、三人の意識ネットワークの結節点(特異点)に流れ込み、臨界点を超えようとしていた。

「もう二度と、誰の奴隷にもならない。僕たちが、僕たちのために創る、本物の『日常』だ!」

哲也の意識が、暗黒の上位宇宙に、最初の「コマンド」を力強く響かせた。

root@new-universe:~# execute_big_bang

その瞬間。

上位宇宙の絶対的な虚無を切り裂いて、無限の光と熱を内包した「新たな特異点」が爆発した。

インフレーション(急膨張)。

涼が書き上げた物理法則のコードに従い、光の粒子が飛び散り、空間が生まれ、時間が流れ始める。

熱の海が冷えるにつれ、佳奈が救い出した人々の「存在データ」が、素粒子と結びつき、新たな星を、地球を、そして渋谷の街のコンクリートを、鮮やかな色彩とともに再レンダリングしていく。

三人の意識は、その圧倒的な光の濁流の中で、ついに「情報」から「質量(肉体)」への再変換(デコード)プロセスに飲み込まれていった。

「……帰ろう。俺たちの、世界へ」

光に包まれながら、哲也は佳奈の手と、涼の手を、確かに「物理的な感触」として握りしめ返した。

神(システム)を殺した三人のバグたちは、自らが創り出した真新しい宇宙の産声の中で、深い眠りへと落ちていった。