我思う、ゆえに我有り-29

第29話:特権の放棄と、エントロピーの産声

頬を撫でる風には、微かな湿り気と、アスファルトが太陽に焼かれる匂いが混じっていた。

哲也は、重い瞼をゆっくりと開けた。

視界に飛び込んできたのは、ノイズの混じった四角いテクスチャではない。大気中の気体分子が太陽光を乱反射して生み出される、息を呑むほどに深く、澄み切った「本物の青空(レイリー散乱)」だった。

「……う、ん……」

隣で、微かな寝息が聞こえた。

哲也が身を起こすと、そこはT大学理学部棟の屋上だった。コンクリートの床の上で、佳奈が身体を丸めて眠っている。彼女の胸は規則正しく上下し、規則的な呼吸を繰り返していた。透過もしていない。ノイズも走っていない。

確かな質量と熱を持った、人間の肉体だった。

「おい、哲也……」

背後から、掠れた声がした。フェンスにもたれかかっていた涼が、ふらふらと立ち上がる。

涼は、自分の両手を太陽の光にかざし、信じられないものを見るように震えていた。

「重力がある。風の抵抗を感じる。……俺たちの演算(ビッグバン)は、成功したのか?」

涼はポケットから100円玉を取り出し、目の高さから静かに落とした。

硬貨は放物線を描き、チリン、と澄んだ音を立ててコンクリートの床で跳ねた。

涼の頭脳が、落下時間から重力加速度を瞬時に逆算する。

g=9.80665 m/s2g = 9.80665 \text{ m/s}^2……。摩擦係数も、空気抵抗の流体力学も完璧だ。俺がコンパイルした物理エンジンに、一切のバグはない……!」

涼は、膝から崩れ落ちて顔を覆った。

それは、恐怖や絶望ではない。三十年間追い求めてきた物理学の真理を、自分自身の手でこの新宇宙に書き上げ、それが寸分の狂いもなく機能していることへの、圧倒的な歓喜の涙だった。

「涼くん……哲也……」

佳奈が目を覚まし、身を起こした。彼女は自分の手を見つめ、そして哲也と涼の顔を見て、顔をくしゃくしゃにして泣き笑いした。

「痛くない……。私たち、消えなかった。帰ってこれたのね……!」

哲也は佳奈の手を握りしめ、その温もりを確かに感じ取った。

彼らは、上位宇宙のゼロ点エネルギーをかき集め、全く新しい宇宙を創造し、そこに自分たちの肉体と魂を再レンダリングすることに成功したのだ。

だが、哲也の表情には、一抹の暗い影が落ちていた。

「……哲也?」佳奈が小首を傾げる。

哲也は無言で、自分のコートのポケットから「スマートフォン」を取り出した。

液晶画面には、新宇宙の青空が反射している。だが、画面の中央には、黒いターミナル画面が明滅し、あの恐ろしいプロンプトが表示されたままだった。

root@new-universe:~# _

「特権管理者(Root)のアクセス権限だ」

哲也は、震える声で言った。

「僕たちは、この宇宙の創造主になった。上位宇宙の連中と同じ『神』だ。……この端末(コンソール)を使えば、今からでも空の色を赤に変えることもできるし、病気という概念のコードを削除して、誰も死なない世界に書き換えることもできる」

涼の歓喜の涙が止まり、息を呑んだ。

「お前……それを、まだ持っていたのか」

「僕たちが神である限り、この宇宙は『僕たちが管理するシミュレーション(箱庭)』のままだ」

哲也は、コンソールの画面を深く見つめた。

「悲しみを消せる。痛みをなくせる。……前回の世界で、僕がコンソールの前で誘惑された『完璧な日常』を、今なら誰に邪魔されることもなく、この手で作れるんだ」

屋上に、重い沈黙が降りた。

彼らは、理不尽なシステムによってどれほどの苦痛を味わわされたかを知っている。大切な人が消される絶望も、狂気に陥る恐怖も、骨の髄まで理解している。

だからこそ、「誰も傷つかない完璧な世界」への誘惑は、あまりにも強烈だった。

「……やめろよ、哲也」

沈黙を破ったのは、涼だった。

彼は、頬の涙を乱暴に拭いながら、哲也の前に立った。

「俺が設定した物理法則(ルール)に、チートコードなんて残すな。……実験データが俺の思い通りに書き換えられる世界なんて、クソくらえだ。俺は、失敗して、悩んで、それでも真理に近づこうともがく『人間』でいたいんだよ」

「涼くんの言う通りよ」

佳奈も、立ち上がって哲也の隣に並んだ。彼女の瞳には、一切の迷いがなかった。

「私たちが愛したのは、痛くても、悲しくても、互いの手を握って乗り越えようとする『本物の現実』だったはずでしょ? 苦痛を消去した完璧な世界には、私たちが生きてるって証明(バグ)は、どこにもなくなっちゃう」

佳奈は、哲也が握りしめているスマートフォンの画面に、自分の手をそっと重ねた。

「神様なんて、私たちには似合わないわ」

『我々が、共に痛む。ゆえに、我々はここに在る』

かつて哲也が、崩壊する地下の暗闇で涼と佳奈に叫んだ言葉が、三人の胸に温かく蘇る。

哲也は、二人の顔を交互に見つめ、やがて憑き物が落ちたように、静かに、そして清々しく微笑んだ。

「……そうだな。僕たちは、神(システム)を殺したただのハッカーだ。自分たちが神の座に座ってどうする」

哲也は、スマートフォンのコンソール画面に、この新しい宇宙に対する「最後にして最大のハッキングコード」を打ち込んだ。

それは、宇宙の改竄でも、奇跡の実行でもない。

自らの管理者権限そのものを、二度と復元できないように完全に破棄するコマンドだった。

root@new-universe:~# rm -rf /root/*

root@new-universe:~# revoke_admin_privileges --force

「さらばだ、上位宇宙の亡霊たち。僕たちの世界に、管理者はもういらない」

哲也がエンターキーを叩き込んだ瞬間。

スマートフォンの画面が激しく明滅し、黒いターミナル画面がノイズとともに完全に消失した。直後、スマートフォン自体が限界を迎え、プツンと音を立てて電源が落ちた。二度と起動することはない、ただのガラスと金属の塊になった。

「……消えたな」

涼が、安堵の息を長く吐き出した。

「ああ。これでもう、この宇宙は誰のシミュレーションでもない」

哲也は、機能の停止したスマートフォンをポケットにしまい、屋上のフェンスへと歩み寄った。

「エントロピーは増大し続ける。人は病気になり、いつか必ず死ぬ。取り返しのつかない悲しみも、どうしようもない絶望も、全部この世界には残っている。……僕たちは、ただの脆弱な人間に戻ったんだ」

フェンス越しに見下ろすキャンパス。

そこには、無機質な灰色の人形ではない、色鮮やかな服を着て、笑い合い、恋に悩み、レポートの締め切りに追われる「本物の学生たち」の姿があった。

佳奈がサルベージした何十億という魂のデータは、新しい肉体を得て、誰一人欠けることなくこの世界で息づいていた。

「哲也! 涼くん! 見て!」

佳奈が、屋上から身を乗り出してキャンパスの中庭を指差した。

そこには、パイプ煙草を咥え、小難しそうな顔で分厚い原著論文を読み歩いている、初老の男性の姿があった。

無限のループから解放され、再び「未知の宇宙の真理」を探求する喜びを取り戻した、白川教授の後ろ姿だった。

「……あの爺さん、また歩きスマホならぬ歩き論文やってやがる」

涼が、涙声をごまかすように鼻をすすりながら笑った。

「行こう」

哲也は、佳奈と涼の肩を叩いた。

「僕たちの、退屈で、残酷で、途方もなく美しい……『現実(リアル)』が待ってる」

屋上のドアを開け、三人は光に満ちた階段を下りていく。

神なき新宇宙の歴史が、彼ら三人の足音とともに、今、静かに動き始めたのだった。