我思う、ゆえに我有り-13

第13話:虚無の航海と、記憶のポインタ

半径五メートルのアスファルトの円盤が、絶対的な暗黒の中を滑っていく。

上下の概念も、東西南北という方位も存在しない。

ここはシステムが「渋谷」という空間データをフォーマット(初期化)した直後の、未定義の領域(Nullスペース)だ。光の反射すら計算されないこの虚無の海では、哲也(てつや)、涼(りょう)、佳奈(かな)の三人が強烈な意識で維持している「現実のドーム」だけが、唯一の光と音を放つ孤独な箱船だった。

ザァァァァッ……!

ドーム内では、凍りつくような雨が降り続いている。

雨粒は、半径五メートルの見えない境界線に触れた瞬間、演算対象から外れて音もなく「無」へと還っていく。

「ハァ……ッ、ハァ……!」

三人は手を固く握り合ったまま、円盤の中央で円陣を組むようにうずくまっていた。

虚無の海を移動する。それは、物理的に足を動かして歩くことではない。システムに対して、自分たちのドームの座標変数(x,y,z) (x, y, z)をミリ秒単位で「書き換える」よう、強烈な観測(念)を送り続けるという、強烈なハッキング作業だった。

「涼、佳奈……意識を逸らすな。あの『猟犬』のノイズが残したデータ・トレース(痕跡)を辿るんだ」

哲也の鼻から流れた血が、雨水に混じって足元を赤く染めている。

彼らは、白川教授の「革張りのノート」のテクスチャを纏っていたエラー獣が来た方向――システムがバグを隔離しておく『サンドボックス(隔離領域)』のバックドアを目指していた。

だが、この未定義領域での航行は、彼らの精神(ハードウェア)に未知の負荷を掛け始めていた。

「……てつ、や……?」

不意に、佳奈の握る手の力がふっと抜けた。

哲也が顔を上げると、佳奈の瞳から焦点が失われ、まるで夢遊病者のように虚空を見つめている。

「どうした、佳奈! 境界線のイメージを保て!」

「私……なんで、こんな暗いところにいるの……? そもそも、なんで雨が降ってるの……?」

佳奈の口から紡がれた言葉に、哲也の心臓が凍りついた。

彼女の記憶が、欠落し始めている。

「おい、佳奈! ふざけるな、俺たちが今システムから逃げてることすら忘れたのか!?」

涼が怒鳴りつけたが、その涼自身の顔色も、死人のように蒼白になっていた。涼は空いている方の手で、自分のこめかみをガンガンと激しく殴り始めた。

「クソッ……! 思い出せない! シュレディンガー方程式の……波動関数の時間発展の式が……! 俺は、俺は何の実験をしてたんだ……!? 俺は本当に物理学者だったのか!?」

「涼! 佳奈!」

哲也は二人の手を、千切れるほど強く握りしめた。

システムによる、新たな攻撃だった。

物理的なガベージコレクション(猟犬による削除)がドームの防壁に阻まれたため、システムは「アプローチ」を変えたのだ。

「メモリの断片化(フラグメンテーション)だ……!」

哲也の頭脳が、最悪の事態を冷徹に分析する。

ここはフォーマットされた空き領域。システムにとって、彼ら三人は「本来存在してはならない、どのプログラムからも参照されていない孤立したデータ」だ。

情報科学において、他のどの変数からも参照(リンク)されていないメモリ領域は、不要とみなされ、自動的にOSによって解放(消去)される。

システムは、彼らの脳を構成する記憶データへの「ポインタ(参照元)」を強制的に切断し、彼らのアイデンティティを内側から崩壊させようとしているのだ。

「自分が誰か」を忘れてしまえば、ドームを維持する強烈な「自我(観測)」は消滅し、三人はただのノイズとなって虚無に溶ける。

「思い出すんだ!!」

哲也は、雨音に負けない声で叫んだ。

「佳奈! 君は僕の幼馴染だ! 大学の近くの喫茶店で、いつも中学生の英語のプリントを採点していただろう! 君の好きな言葉は、デカルトの『我思う、ゆえに我あり』じゃないか!!」

「……えいご……? デカルト……」

「涼! お前はT大学の実験物理学者だ! UnityでAIのシミュレーションを回しながら、いつも俺の量子論の数式を『実証データがない』と笑っていたじゃないか! お前が観測したデータが、この宇宙の真理を暴く鍵だったんだぞ!!」

「俺が……実証データ……」

二人の焦点が、わずかに哲也の声に引き寄せられる。

「いいか、聞いてくれ! プログラミング言語のC++には『スマートポインタ』という概念がある!」

哲也は、薄れゆく彼らの意識を繋ぎ止めるため、血を吐くような思いで情報科学の論理を叫び続けた。

「あるオブジェクトのデータをメモリ上に保持し続けるためには、誰かがそのデータを『参照(ポイント)』し続けなければならない! 参照カウント(Reference Count)がゼロになった瞬間、そのデータは消去される! だから……!!」

哲也は、涙と雨でぐしゃぐしゃになった佳奈の顔を、そして恐怖に歪む涼の顔を、交互に強く睨みつけた。

「俺たちが、互いの『ポインタ』になるんだ!!」

「互いの……ポインタ……」

佳奈の虚ろな瞳に、わずかな光が灯る。

「そうだ! 俺が、お前たちの過去を記憶し、証明する! だからお前たちも、俺という人間がここにいることを記憶しろ! 互いの人生を、感情を、強烈に参照し合うんだ! そうすれば、システムは俺たちのメモリの『参照カウント』をゼロにできない!!」

量子非複製定理(No-Hiding Theorem)。

量子情報は、決して宇宙から完全に消滅することはない。別の形にエンコードされるだけで、情報そのものは保存される。

哲也は、自分たちの意識を互いの脳というハードディスクに「分散バックアップ」させることで、システムのメモリ解放アルゴリズムに抵抗しようとしたのだ。

「……哲、也……」

佳奈の目に、再び大粒の涙が溢れた。それはバグのノイズではない。確かな感情を伴った人間の涙だった。

「思い、出した……。私が、あなたの手を握ったのよ……。あなたが消えそうだったから、私が……っ!」

「俺も……思い出したぞ、クソッ……」

涼が、歯を食いしばって獰猛な笑みを浮かべた。

「俺は涼だ。お前のふざけた数式を、唯一証明してやれる……世界で一番優秀な物理学者だ!!」

三人の意識のネットワークが、再び強固な太いケーブルとなって連結された。

メモリの参照カウントは跳ね上がり、システムによる記憶のデリート(初期化)が完全に弾き返される。

ドームの境界線が、かつてないほど強い光を放ち、絶対的な虚無の暗黒を切り裂いて進む。

哲也が、荒い息を吐きながら前方を睨み据えた。

「……着いたぞ」

虚無の海の果て。

そこには、システムの深い階層に隠蔽された「巨大な壁」が立ちはだかっていた。

いや、壁ではない。それは、ブラックホールの事象の地平面のように、光と空間が極限まで歪んだ「重力レンズ」のドームだった。

「あれが……隔離領域(サンドボックス)……!」

涼が息を呑む。

歪んだ空間の向こう側に、ぼんやりとだが「風景」が透けて見えていた。

それは、彼らがよく知る場所。

T大学理学部棟の、本棚に囲まれた埃っぽい部屋。白川教授の研究室が、まるで琥珀に閉じ込められた虫のように、システムの中枢に冷凍保存(フリーズ)されていたのだ。

「教授のデータは、あの部屋ごと隔離(サンドボックス化)されている」

哲也は、ドームの進行速度を緩め、その禍々しい事象の地平面の前に立った。

「システムは、宇宙の真理(ソースコード)に最も近づいた教授を、危険なマルウェアとしてあの空間に封じ込めたんだ」

「どうやって中に入る?」

涼が、物理法則が崩壊したその「隔離の壁」を見上げて尋ねた。

「あの壁に触れたら、俺たちのドームの防壁なんて一瞬で消し飛ぶぞ。ファイアウォールなんて生易しいもんじゃない。座標そのものを捻じ曲げる『特異点』の壁だ」

「物理的な侵入は不可能だ。だが、ここはシミュレーションだ」

哲也は、白川教授の部屋が透けて見えるその壁に向かって、ゆっくりと手を伸ばした。

「バックドア(坑道)のパスワードは、最初から決まっている。システムが教授を隔離した理由。それは、教授の書き残した『あの方程式』が、この宇宙の管理者権限(root)に直接アクセスできるマスターキーだったからだ」

哲也の唇が、宇宙の真理を解き明かす呪文を紡ぐ。

「ホログラフィック原理。ブラックホールのエントロピー……」

S=kAc34GS = \frac{k A c^3}{4 G \hbar}

哲也がその数式を「観測」した瞬間。

絶対の防壁であった事象の地平面が、まるで水面に落ちた一滴の波紋のように、静かに、そしてゆっくりと円形に開き始めた。

管理者権限の隔離領域への、バックドアが開いたのだ。