我思う、ゆえに我有り-16

第16話:セーフモードの逃避行と、摩擦係数ゼロの罠

色彩を奪われた「セーフモード」の渋谷。

灰色の直方体(ポリゴン)として再レンダリングされた無機質なビル群の谷間を、顔のない群衆が無音で歩き続けている。足音すらない。彼らの足元はアスファルトのテクスチャにめり込んでおり、システムが「歩行音の物理演算」すら省略しているのは明らかだった。

哲也、涼、佳奈の三人は、その不気味な死者の街を駆け抜け、国道246号線へと出た。

「車を探すぞ。地下の重力波干渉計がある山岳地帯まで、歩いて行ける距離じゃない」

哲也は、路上に等間隔で静止している「車のオブジェクト」に駆け寄った。

それは、かつてはタクシーや乗用車だったものだ。しかし今は、メーカーのエンブレムも、窓ガラスの反射演算も削ぎ落とされ、ただの「タイヤのついた灰色の箱」へと劣化している。

「動くのかよ、こんなテクスチャの貼られてないハリボテが!」

涼が運転席のドアノブ――のような出っ張り――を乱暴に引っ張った。ドアは「カチャッ」という音もなく、スライドするように開いた。

「システムが『自動車』という変数の定義を完全に消去していない限り、動くはずだ。エンジンの熱力学演算は省略されていても、『アクセルを踏めば、設定された速度パラメーターの分だけ前進する』という基本関数(メソッド)は残っている」

哲也の予想通り、涼が運転席に乗り込み、キーシリンダーもないダッシュボードの奥の配線(のようなポリゴンの束)を強引に引き直して「始動(Start)」のステータスをオンにすると、灰色の箱は無音のままスルスルと走り出した。

排気音も、エンジンの振動もない。ただ、空間の座標(x,y) (x, y) を強制的に書き換えるように、車は気味が悪いほど滑らかに加速していく。

「気持ち悪いな……路面からのフィードバック(振動)が一切ないぞ」

ハンドルを握る涼の顔には、濃い疲労と焦燥が張り付いていた。

後部座席で佳奈が哲也のコートを握りしめ、流れていく灰色の景色を怯えたように見つめている。

「システムは今、この領域全体を極小のリソースで回している。僕たちへの監視も、一時的に手薄になっているはずだ。この隙に、フォーマットされた『渋谷の座標』から抜け出す」

車は、無音のまま首都高速の入り口を突破し、東京の西へと向かって疾走した。

数十分後。

フロントガラス(透明なポリゴンの板)の向こう側に、ようやく「色彩」が見え始めた。

灰色のセーフモード領域の境界線を越えたのだ。山の稜線が緑色を取り戻し、空にはテクスチャではない、複雑な光の散乱(レイリー散乱)を伴った「本物の青空」が広がっている。

「抜けた……! システムの正常なレンダリング領域だ!」

涼が歓喜の声を上げた。車のタイヤが、本物のアスファルトの凹凸を拾い、ゴォォォという懐かしいロードノイズを車内に響かせた。

物理法則が、彼らの知る「現実」へと戻ってきたのだ。

「油断するな、涼。ここからが本当の地獄だ」

哲也はスマートフォンの画面――USBメモリから読み出した地下施設の図面――から目を離さずに言った。

「僕たちの目的地である重力波干渉計は、システムにとっての『エラー監視ポート』だ。そこにバグ(僕たち)が向かっているとシステムが検知すれば、今度はローカルな物理法則を直接書き換えて、僕たちを『事故死(例外エラー)』に見せかけて処理しに来る」

「……どういう意味だ?」

「重力波干渉計がどういう仕組みか、知っているだろう?」

哲也は、ノートの端に干渉計の原理図を素早く書き込んだ。

「マイケルソン干渉計の原理だ。光源から放たれたレーザー光を、ハーフミラーで直角に二手に分け、数キロメートル先の鏡で反射させて再び合流させる。もしその空間に重力波(空間の歪み)が通り過ぎれば、二つの光の経路の長さに極小のズレが生じ、光の干渉縞が変化する」

哲也のペン先が、図面の中央を強く叩いた。

「その測定精度はΔLL1021 \frac{\Delta L}{L} \approx 10^{-21}。つまり、地球から太陽までの距離の中で、水素原子一個分のズレすら検知する。システムがこの宇宙の演算エラー(空間の歪み)をデバッグするために、人類に作らせた究極の『測定ハードウェア』だ。……あそこに辿り着けば、システムの中枢コード(Root)に物理的にアクセスできる」

「だから、システムは絶対に俺たちをそこへ近づけさせないってことか」

涼がアクセルを踏み込んだ、その瞬間だった。

キィィィィィンッ!!

車のタイヤが、突然、強烈な摩擦音を立てて空転を始めた。

タコメーターの針が振り切れ、エンジンが爆音を上げるが、車体は前進する力を完全に失い、氷の上を滑るように横滑り(スピン)を始めたのだ。

「うわあっ! なんだ!?」

涼が必死にハンドルを切り、ブレーキペダルを床まで踏み込む。

しかし、車はまったく減速しない。

「ブレーキが効かない! タイヤが空回りしてる!」

「涼くん、前っ! ガードレール!!」

佳奈が悲鳴を上げた。

車は時速100キロの慣性を保ったまま、猛烈な勢いでカーブのガードレールへと突っ込んでいく。

「物理法則の改竄(パラメーター・テンパリング)だ……!」

哲也は、遠心力でシートに押し付けられながら、冷酷なシステムの攻撃を悟った。

システムは、車そのものを破壊するのではなく、彼らが走っている道路の「摩擦係数(μ\mu)」の変数を、局所的に極限までゼロに近づけたのだ。

摩擦力F=μN F = \mu Nμ\muがゼロに収束すれば、どれだけ高性能なブレーキを踏もうと、タイヤは路面を掴むことができない。車はただの「等速直線運動をする質量」と化す。

(僕たちを、ただの交通事故による『物理演算の結果(死亡)』として処理する気か……!)

「哲也! ぶつかる!!」

涼が絶望の声を上げ、ハンドルに突っ伏した。

「させない……っ!!」

哲也は、自分たちの命をただの「数字の書き換え」で終わらせようとするシステムへの激しい怒りとともに、血走った眼でフロントガラスの向こうの『路面』を睨みつけた。

(摩擦係数はゼロじゃない。アスファルトの微細な凹凸は存在する。タイヤのゴムは路面に食い込んでいる。俺が、この空間の変数を『観測』で上書き(オーバーライド)する!!)

「我思う、ゆえに……止まれェェェェッ!!」

哲也の強烈な意識(観測)のネットワークが、量子もつれを通じてシステムの演算に強烈なインタラプト(割り込み)をかけた。

佳奈もまた、哲也のコートを握りしめ、生きることを強く、強く願った。

ズガガガガガァァァンッ!!!

システムが書き換えようとしていた摩擦係数の変数が、哲也の観測によって強引に「1.0(正常値)」へと引き戻された。

空転していたタイヤが突如として凄まじいグリップ力を取り戻し、白煙を上げてアスファルトを削り取った。

車はガードレールに激突するわずか数十センチ手前で、猛烈なGとともに停止した。

「……ハァ、ハァ……ハァ……」

車内に、荒い呼吸音だけが響く。

「……止まっ、た……」

涼が、震える両手でハンドルを握りしめたまま、信じられないというように呟いた。

佳奈は声も出せず、ポロポロと涙を流している。

「……僕たちの『意識』が、またシステムに勝ったんだ」

哲也は、鼻血を拭いながら、フロントガラスの向こうにそびえる巨大な山脈を見上げた。

その山脈の頂上付近の空――本来ならば美しい青空が広がっているはずの「空のテクスチャ(Skybox)」が、不自然な四角いブロック状にノイズを放ち、明滅を繰り返していた。

システムが、彼らの異常な観測力(ハッキング能力)に負荷をかけられ、空の描画にまでエラーを起こし始めているのだ。

「見ろ、涼。あの空のノイズの真下だ」

哲也は、USBメモリを握り直した。

「あそこが、宇宙の管理者(アドミニストレータ)へと続く、重力の井戸の入り口だ。システムはもう、なりふり構わず物理法則を歪めてくるぞ。行く覚悟はあるか」

「……愚問だな」

涼は、震える手でシフトレバーを握り直し、獰猛な笑みを浮かべた。

「俺の三十年間の実験データが全部『ラグの言い訳』だったなんて、誰が納得して死ねるか。宇宙の管理者の顔面に、俺の質量のこもった右ストレートを叩き込んでやるまで、俺の変数は絶対にゼロにはならない」

エンジンが再び爆音を上げ、ボロボロの車は、ノイズに歪む空の下、システムの心臓部である地下巨大施設へと向けて最後の坂道を登り始めた。