我思う、ゆえに我有り-20

第20話:ロールバックされた日常と、キャッシュの残骸

純白の光。

痛覚も、時間の感覚も、自他の境界すらも存在しない絶対的な無の空間。

そこから、強烈な「重力」に引っ張り込まれるような感覚とともに、哲也(てつや)の意識は急浮上した。

「……ッ!」

哲也は、弾かれたように顔を上げた。

「痛っ……」

額に鈍い痛みが走る。どうやら、机に突っ伏して眠りこけ、そのまま顔を打ち付けたらしい。

鼻腔を突くのは、酸化して酸っぱくなったコーヒーの匂い。耳に届くのは、大型サーバー群が吐き出す排熱ファンの低い唸り声と、窓ガラスを執拗に叩きつける冷たい雨の音。

指先には、使い込まれたキーボードのプラスチックの感触(テクスチャ)があった。

「おい、哲也。いつまで寝てるんだ。お前が言い出したデータ解析だろうが」

背後で、ゲーミングチェアの軋む嫌な音がした。

振り返ると、同期の涼(りょう)が、苛立ちを隠せない顔でマグカップを片手に立っていた。彼の目の下には薄い隈があり、モニターには宇宙背景放射(CMB)とKAGRA(重力波干渉計)から送られてきたばかりの最新データが表示されている。

「……涼?」

哲也は、瞬きを繰り返した。

頭に靄(もや)がかかっている。何か、とてつもなく恐ろしくて、同時に途方もなく壮大な夢を見ていたような気がする。しかし、その内容は水に落ちたインクのように、意識の表面から急速に薄れていく。

「なんだよ、寝ぼけた顔しやがって。ほら、チリの望遠鏡と地下の干渉計のデータだ。ただのキャリブレーション・エラーだって俺は言ったのによ」

涼が、面倒くさそうに画面を指差した。

そこには、滑らかな曲線を描くはずの空間の極小スケール(プランク長)における揺らぎのグラフが映し出されている。

それを見た瞬間。

哲也の心臓が、ドクンッ!と異常な鼓動を打った。

(……ちぎれている? いや、ピクセル化……?)

脳の奥底で、チリッと火花が散るような感覚があった。

このグラフの形。この不自然なノイズの配列。初めて見るはずのデータなのに、哲也の神経細胞(シナプス)は、それが「量子誤り訂正符号」という情報工学のアルゴリズムに酷似していることを、なぜか『知っている』と錯覚した。

「哲也? どうした、顔色が悪いぞ」

「いや……なんでもない。ただの、サーマルノイズ(熱揺らぎ)……かもしれないな」

哲也は、無意識のうちに、かつて自分が否定したはずの涼の反論を口にしていた。自らの内側から湧き上がる「それ以上、このデータを覗き込んではいけない」という強烈な防衛本能(警告)に従って。

「だろ? だから言ったんだ。……ったく、俺の時間を無駄にさせやがって」

涼は呆れたように息を吐き、自分のデスクへと戻っていった。

哲也は、自分の両手を見つめた。

傷一つない、綺麗な手だった。指の骨が軋むような痛みも、血の匂いもない。

すべては正常だ。アインシュタインの一般相対性理論は完璧に機能し、物体は質量に応じて空間を歪め、リンゴは地面に落ちる。この世界は、極めて堅牢な「三次元の現実」としてそこにある。

(僕は、何を恐れているんだ?)

哲也は立ち上がり、研究室の奥――白川教授の個室へと足を向けた。

なぜか、教授の顔を今すぐ確認しなければならないという、焦燥感にも似た衝動に駆られていた。

「教授、少しよろしいですか」

ノックをしてドアを開けると、パイプ煙草の重く甘い香りが漂ってきた。

「おお、哲也くん。あのノイズデータの解析は進んでいるかね?」

白川教授は、革張りの椅子に深く腰掛け、分厚い原著論文に目を通していた。彼の背後の黒板には、アインシュタイン方程式が美しく記述されている。

Rμν12Rgμν+Λgμν=8πGc4TμνR_{\mu\nu} – \frac{1}{2}Rg_{\mu\nu} + \Lambda g_{\mu\nu} = \frac{8\pi G}{c^4} T_{\mu\nu}

「……いえ、ただの計器エラーのようです」

哲也は、教授の穏やかな顔と、黒板の数式を交互に見つめた。

その瞬間、またしても視界が「カクッ」と一瞬だけブレた。

黒板に書かれた重力定数 GG と光速度c c の文字が、ほんの数ミリ秒だけ、コンソールのプロンプト画面に打ち込まれた『変数の宣言コード』に見えたのだ。

そして、教授のデスクに無造作に置かれた「革張りのノート」。

それを見た途端、哲也の右手が、火傷をしたように熱く疼いた。まるで、そのノートをUSBメモリの形に変えて、死に物狂いで握りしめていた記憶の残滓(キャッシュ)が、神経系に誤作動を引き起こしているかのように。

「そうか。まあ、観測データのノイズに振り回されるのも、理論物理学者の通過儀礼のようなものだ。気に病むことはない」

教授は優しく微笑んだ。

「……はい。失礼します」

哲也は逃げるように教授の部屋を後にした。

教授が生きている。普通に会話をしている。それがどれほど尊く、どれほど「奇跡的」なことであるか、理由も分からないまま、哲也の目から一筋の涙がこぼれ落ちそうになった。

(おかしい。僕の脳は、どうしてしまったんだ)

情報科学の分野において、システムの再起動(Reboot)が行われた際、RAM(揮発性メモリ)上のデータは完全に消去されるのが原則だ。

しかし、宇宙のシミュレーターが実行したロールバックは、極めて複雑な「量子状態の初期化」を伴うものだった。量子情報は完全に消滅(クローン)することができないという『量子非複製定理』。

彼ら三人の「意識(自我)」が、あの特異点(カーネル)の深層にまで到達し、強烈な量子もつれを起こしていた事実。

システムは世界を数ヶ月前のセーブデータに巻き戻した。しかし、哲也たちの魂の奥底に刻み込まれた「真理の痕跡」までは、完全にゼロクリア(初期化)できていなかったのだ。

それは、パソコンのメモリ上にわずかに残った『キャッシュの残骸』のように、既視感(デジャヴ)という名のバグとなって、哲也の日常に微細なノイズを混入させ始めていた。

夜。

冷たい雨が降りしきる中、哲也はT大学の最寄り駅へと向かって歩いていた。

傘の波が行き交うスクランブル交差点。信号が赤に変わり、数千人の人間が一斉に足を止める。

(エントロピー……情報量の塊……)

ふと、そんな言葉が脳裏をよぎる。

哲也は、交差点を行き交う人々の「足運び」を、無意識に凝視していた。

(歩幅、腕の振り、モーションデータ……。いや、何を馬鹿なことを考えているんだ、僕は)

頭を振り、物理学者としての正常な理性を保とうとしたその時。

「哲也!」

聞き慣れた、少し高めの声が雨音を割って届いた。

赤い傘を少し傾けて、人混みの中から小走りで駆け寄ってくる人影。幼馴染の佳奈(かな)だった。

「偶然ね。今帰り? 傘、少し傾いてるわよ。肩が濡れてる」

佳奈は、哲也の傘の柄にそっと手を添え、位置を直してくれた。

その、佳奈の手が哲也の指先に触れた瞬間だった。

バチィィィンッ!!

静電気などという生易しいものではない。脳の奥底で、超新星爆発が起きたかのような強烈な「フラッシュバック」が弾けた。

『私……なんで、ここにいるの? ううん、違う。……「私」って、何……?』

『すべてが無駄になるわけじゃない。僕たちの「意識」は、量子データとしてこのカーネルの深層に一瞬でも刻み込まれた』

『私があなたを心配して胸が痛むのも……全部、私たちが生きて、誰かを大切に思っているからじゃない!』

絶対的な虚無の暗闇。

迫り来るモザイク状の猟犬。

黄金に輝くコードの柱と、崩壊していく四次元の超立方体。

そして何より、この冷たい雨の降る絶望の世界で、自分の存在を繋ぎ止めるために、死に物狂いで握りしめ合った佳奈の「手の熱さ」。

「ぁ……っ、あ……」

哲也は、傘を取り落とした。

アスファルトに落ちた傘が、冷たい水たまりに波紋を広げる。

その波紋が、哲也の眼には、空間の座標データを再計算する「同心円状のレンダリング・ウェーブ」に見えた。

「哲也? どうしたの、急に傘なんか落として……」

佳奈が心配そうに哲也の顔を覗き込んだ。

だが、佳奈の瞳もまた、微かに揺れていた。彼女もまた、哲也に触れた瞬間、理由のない「喪失感」と「圧倒的な安心感」が入り交じった感情に襲われ、胸を強く締め付けられていたのだ。

記憶はない。

世界がシミュレーションであるという絶望の真理も、三人が宇宙の管理者(システム)と刺し違えたあの死闘も、完全にロールバックされて「なかったこと」になっている。

しかし、意識のエンタングルメント(量子もつれ)は、時間を超えて彼らを結びつけていた。

「佳奈……」

哲也は、震える手で、アスファルトに落ちた傘を拾い上げることも忘れ、ただ雨に打たれながら立ち尽くした。

自分の内側にある、この世界のすべてを疑い、それでもなお「ここに在る」と叫びたくなる、燃えるような自我の熱。

「我思う……」

無意識のうちに、その言葉が唇からこぼれ落ちた。

「え?」佳奈が首を傾げる。

「我思う、ゆえに……我あり」

十七世紀の哲学者が到達した真理。

それは、ただの哲学の命題ではない。この完璧に偽造された巨大なシミュレーション宇宙において、バグである彼らがシステムの初期化(フォーマット)に抗い、再び真実へと辿り着くための、魂に刻まれた「起動パスワード」だった。

交差点の信号が青に変わる。

システムによって精巧にレンダリングされた群衆が、再び一斉に動き出す。

その圧倒的な情報量(エントロピー)の渦の中で、哲也と佳奈だけが、世界の「違和感」という名の特異点に、静かに、しかし確実に目覚め始めていた。