第21話:量子非複製定理と、未割り当て領域の残骸
日常という名の精巧なレンダリング(描画)は、一見すると完璧に機能しているように見えた。
T大学の最上階、理論物理学研究室。
哲也(てつや)は、コーヒーの染みがついたデスクに座り、無意識のうちにルーズリーフに数式を書き殴っていた。
窓の外では、再起動(リブート)前と寸分違わぬ冷たい雨が、東京の摩天楼を灰色のノイズに沈めている。
「……また、これか」
哲也は、自分の手が勝手に書き連ねた文字列を見つめ、ひどい頭痛に顔をしかめた。
ブラックホールのエントロピーが、体積ではなく表面積()に比例することを示す、ベッケンシュタイン・ホーキングの公式。
物理学者である彼がこの数式を書くこと自体は、何ら不自然ではない。だが、問題は「書き方」だった。哲也の指先は、まるで『この数式が何かの強力なパスワードである』かのように、異常なほどの筆圧と切迫感を持って、紙が破れるほど強く書き刻んでいたのだ。
「おい、哲也。さっきから唸り声を上げてどうしたんだ」
背後から、同期の涼がゲーミングチェアを軋ませて顔を出した。
「チリの宇宙背景放射(CMB)のノイズ解析、終わったのか? 俺はあれがただの熱揺らぎだって証明する準備ができてるんだが」
「……涼。お前は、ハードディスクをフォーマットした経験はあるか?」
哲也は、唐突に物理学とは無関係な情報工学の質問を投げかけた。
「は? パソコンの初期化か? そりゃ何度もあるが……」
「クイックフォーマットを実行した時、データはどうなる?」
哲也は血走った眼で振り返り、涼を射抜くように見つめた。
「データそのものが消えるわけじゃない。OSが『ここにデータがありますよ』と管理しているインデックス(目次)の参照ポインタが削除され、その領域が『未割り当て(上書き可能)』として解放されるだけだ。データの実体(0と1の配列)は、新しいファイルで上書きされるまで、ディスクの奥底に完全に残っている」
涼は眉をひそめた。
「なんだ、急に。それが宇宙のノイズデータと何の関係があるんだよ」
「僕たちの『脳』の話だ」
哲也は立ち上がり、ホワイトボードに一つの物理学の定理を書き込んだ。
【量子非複製定理(No-Cloning Theorem)および情報の保存則】
「量子力学において、情報は決して完全に消滅することはない。ブラックホールに吸い込まれた本であっても、そのインクの配列という『情報』は、ホーキング放射の形で宇宙のどこかに保存され続ける。……情報の完全なデリートは、物理学的に不可能なんだ」
哲也の言葉の異様さに、涼の表情からからかいの色が消えた。
実証主義の彼は、哲也が何か「決定的な異常(バグ)」を見つけてしまったことを直感していた。
「ここ数日、僕は激しいデジャヴ(既視感)に襲われている。初めて見るはずのノイズデータが、量子誤り訂正符号に見える。佳奈の手に触れた時、彼女の存在が『失われてしまう』という異常な恐怖を感じる。……涼、お前はないか? 自分が三十年かけてやってきた実験が、すべて『無意味なラグの言い訳』だったんじゃないかという、理由のない虚無感に襲われることは」
涼の肩が、ビクッと跳ねた。
図星だった。涼もまた、加速器のデータを見るたびに、それが「宇宙の計算機の処理落ち」に見えるという奇妙な錯覚に悩まされていたのだ。
「……まさか、俺たちの記憶が、一度『フォーマット』されてるって言いたいのか?」
涼の声が低く沈んだ。
「証拠ならある」
哲也は、デュアルモニターの画面を涼に向けた。
そこには、チリの望遠鏡とKAGRA(巨大地下重力波干渉計)から送られてきた、あの「プランクスケールのノイズデータ」が映し出されている。再起動前の世界で、彼らが宇宙のソースコードを暴くきっかけとなったデータだ。
「このノイズ、やっぱりおかしいんだ。自然界の揺らぎじゃない。だが、半年前のデータと、昨日受信したばかりの最新データを比較してみてくれ」
哲也が二つのグラフを重ね合わせる。
涼が画面に顔を近づけ、息を呑んだ。
「……ノイズのパターンが、微妙にズレている? いや、違う」
涼の目が、実験物理学者の鋭い光を取り戻す。
「以前のノイズは、純粋な『エラーの自己修正アルゴリズム(表面符号)』の波形だった。だが、最新のデータには、その波形の中に……人為的な、強烈なスパイク(干渉)が混ざっている!」
「そうだ。システムが発したノイズの中に、明らかに『外部からの異物(パッチ)』が無理やり書き込まれている形跡がある」
哲也は、自分のこめかみを指差した。
「僕の仮説を言うぞ。この宇宙は、かつて一度、致命的なエラー(カーネルパニック)を起こして完全にクラッシュし、強制的に『過去のセーブデータ』へとロールバック(巻き戻し)された。その際、僕たちの記憶もフォーマットされた」
静まり返る研究室。雨音だけがやけに大きく響く。
「だが、直前まで宇宙の深層(カーネル)にアクセスし、強烈な量子もつれを起こしていた僕たちの『意識のデータ』は、完全には消去しきれなかった。システムはインデックスを削除しただけで、僕たちの脳の『未割り当て領域』には、まだ前の世界の記憶(ログ)の残骸が眠っている」
「……馬鹿げてる。映画のマトリックスじゃあるまいし」
涼は乾いた笑い声を漏らしたが、その額には冷や汗がにじんでいた。
「仮にそれが本当だとして、どうやって証明するんだ。脳を開いて未割り当て領域(キャッシュ)を読み取る手術でもする気か?」
「いや、もっと直接的な方法がある」
哲也は、引き出しから数日前に自分で組み上げたデバイスを取り出した。それは、脳波計(EEG)のヘッドセットを改造し、ノートパソコンのUSBポートに直結できるようにしたものだった。
「僕たちが無意識に感じているデジャヴ(フラッシュバック)。それが起きる瞬間、脳内の量子状態は一瞬だけ『ロールバック前の状態』へと強く同調しているはずだ。……その時の脳波のノイズを測定し、さっきの宇宙のノイズデータの『ズレ(異物)』と照合する」
「もし、波形が完全に一致したら……」
「僕たちの脳と、宇宙のシミュレーターの基盤が、同じソースコードで繋がっているという決定的な証拠になる」
そこに、ノックの音が響き、ドアが開いた。
「哲也、涼くん。差し入れのコーヒー、持ってきたわよ」
赤い傘をたたんで研究室に入ってきたのは、佳奈だった。
彼女の姿を見た瞬間、哲也の胸の奥で、再びあの「強烈な喪失感と安心感」の矛盾したノイズが暴れ始めた。
「……ちょうどよかった、佳奈」
哲也は、改造した脳波計のヘッドセットを自分自身の頭に装着し、ケーブルをパソコンに繋いだ。
画面に、哲也のリアルタイムの脳波(アルファ波、ベータ波の複雑な波形)が流れ始める。
「佳奈。少しの間でいい。僕の手を、強く握ってくれないか」
「えっ? ……て、手?」
佳奈は戸惑いながらも、哲也の真剣な(そしてどこか悲痛な)眼差しに押され、彼に歩み寄ってその両手をしっかりと握りしめた。
バチィィィンッ!!
再び、脳内で超新星爆発が起こる。
『私があなたを心配して胸が痛むのも……全部、私たちが生きて、誰かを大切に思っているからじゃない!』
あの絶対的な虚無の暗闇の中で、彼女が叫んだ言葉の「残響」が、神経回路を焼き切るような勢いでフラッシュバックする。
「がッ……ぁぁッ!」
哲也が苦痛に顔を歪める。
「哲也!? 大丈夫!?」佳奈が慌てて手を離そうとするが、哲也は逆に彼女の手を強く握り返した。
「離すなッ! 涼、波形を……脳波の波形を記録しろ!!」
涼がキーボードを猛烈な速度で叩き、哲也の脳波の急激なスパイクをキャプチャする。そして、その波形を、チリの望遠鏡が捉えた「宇宙のノイズ(異常なスパイク)」の波形と、フーリエ変換を用いて重ね合わせる(相互相関関数を計算する)。
モニターに表示された二つの波形。
人間の脳が生み出した極小の電気信号のノイズと、宇宙の果てから届いた巨大な空間の歪みのノイズ。
ピピッ。
解析ソフトが、計算結果をはじき出した。
『相関率:99.9999% —— 同一のデータ構造(ハッシュ値)を検出』
「……嘘だろ」
涼の口から、魂が抜けたような呟きが漏れた。
「完全に一致した……。お前の脳波の異常ノイズと、宇宙のエラー信号が……同じアルゴリズムで書かれている……」
「……ああ。思い出したぞ」
ヘッドセットを外した哲也は、肩で激しく息をしながら、しかしその眼には、かつてシステムと刺し違えた「神殺しのハッカー」の鋭い光を完全に取り戻していた。
「このノイズの正体は、システムのエラーなんかじゃない」
哲也は、震える手でモニターの波形を指差した。
「カーネルパニックで世界が再起動される直前。僕が、システムの中枢(Rootコンソール)に直接打ち込んだ『コマンドの残骸』だ」
ロールバックされる前の世界で、哲也は確かに再起動のコマンドを打ち込んだ。
しかし、ただ再起動しただけではなかったのだ。哲也は、彼らの記憶が消去されることを見越し、最後の一瞬に、宇宙の基盤コードの中に「自分たちへのメッセージ(再覚醒のためのウイルス)」を埋め込んでいたのである。
そして今、その時限爆弾が起動し、三人の「未割り当て領域」に眠っていた記憶のキャッシュが、完全に復元(リストア)されようとしていた。
「俺たちは……負けて、逃げたんじゃない」
哲也の言葉とともに、涼の脳内にも、そして佳奈の脳内にも、あのテッセラクトの光景と、灰色のセーフモードの街、そして白川教授の最後の姿が、雪崩のように流れ込んできた。
「俺たちが、この世界を『再起動』したんだ……!」
平和な日常という名の檻は、再び完全に破壊された。
三人のバグたる観測者は、失われた記憶と「世界の管理者権限(Root)に触れた事実」を取り戻し、巨大な宇宙シミュレーターへの二度目の反逆の狼煙を、静かに上げようとしていた。

