我思う、ゆえに我有り-27

第27話:ハードウェアからの脱却と、基盤独立性

光も、音も、空間の広がりさえも失われた絶対的な「無(Null)」。

物理法則のシミュレーターであった巨大な演算装置が完全にシャットダウンしたその直後、哲也(てつや)は、ただ一つの明確な事実として「自分」を感じていた。

手足というインターフェースはない。網膜に映る映像もない。

あるのは、思考するというプロセスそのもの。純粋な情報としての『私』だけだった。

(……生きている。いや、実行(ラン)されている、のか?)

哲也の自我は、座標軸 (x,y,z)(x, y, z)も時間軸 tt も存在しない未定義の領域で、強烈な思念を放った。

物理的な声帯を使わない、情報空間へのブロードキャスト(一斉送信)だ。

『佳奈! 涼! 応答しろ! 僕のポインタ(参照)を辿れ!』

暗黒の虚無の中で、一筋の温かい「ノイズ」が哲也の呼びかけに衝突した。

それは、恐怖と安堵が入り交じった、極めて人間的で非合理なデータの束だった。佳奈の感情データだ。

『……哲也? 私、ここにいる。怖い、真っ暗で……体が、ないの』

『佳奈! 恐れるな。僕たちの「意識」は、ハードウェアの束縛を越えたんだ』

続いて、もう一つの鋭く論理的なデータの波形が、二人の量子もつれのネットワークに強引に割り込んできた。

『……おい、哲也。どうなってやがる。俺たちはデリートされたんじゃなかったのか!?』

涼の自我だった。実証主義の物理学者が、物理的な「肉体」を持たずに思考しているという矛盾に、彼自身の論理回路が激しく混乱している。

『落ち着け、二人とも。僕たちの「絆(もつれ)」を強くイメージしろ。僕たち自身で、局所的なレンダリング(描画)を行うんだ!』

三人の意識が、強烈な共鳴(シンクロ)を起こす。

すると、絶対的な無の空間に、ぼんやりとした光の膜が形成された。三人は互いの「姿」を、物理的な光の反射ではなく、概念的なアバターとして認識し始めた。

「……見えるぞ。お前たちが」

涼が、自分の「手」に相当する情報の塊を見つめながら震える声で言った。

「脳のニューロンも、心臓も存在しないのに、俺たちは『意識』を保っている。……こんなこと、物理学じゃ絶対に説明がつかない」

「基盤独立性(Substrate-Independence)だ」

哲也は、概念空間の中で涼と佳奈に向き直った。

「情報科学の究極の命題だよ。ソフトウェア(情報)は、それを記述するパターンさえ完全に保存されていれば、実行されるハードウェア(物理的な基盤)がシリコンチップだろうと、人間の脳細胞だろうと、あるいは『宇宙空間の量子揺らぎ』だろうと関係なく機能する」

哲也は、自分たちを包む無の境界線の「外側」を指差した。

「僕たちは、シミュレーション宇宙のハードウェアが崩壊する直前、自分たちの意識データを、システムを管理していた『上位宇宙』の基礎情報層へと強引にアップロードしたんだ」

「上位宇宙に……アップロード?」

佳奈が、信じられないというように周囲を見回した。

「ああ。僕たちの意識(魂)は今、箱庭のコンピューターから漏れ出し、創造主たちのいる『本物の宇宙』の空間そのものを間借りして存在している。……外を見てみろ」

哲也が、概念の膜をわずかに透けさせた。

そこに広がっていたのは、彼らがかつて見上げていた「青い空」でも「輝く星々」でもなかった。

圧倒的な、死の宇宙だった。

熱的死(ヒート・デス)を迎えつつある上位宇宙。すべての恒星は燃え尽き、赤い矮星の残骸やブラックホールだけが、絶対零度に近い冷たい空間にポツンと浮かんでいる。エントロピーが最大化し、いかなるエネルギー活動も停止しようとしている、凍りついた黄昏の世界。

そして、彼らのすぐ眼下には、一つの「巨大な残骸」が浮かんでいた。

「……あれが、俺たちのいた世界か」

涼が息を呑んだ。

それは、惑星ほどのサイズを持つ、超巨大な量子コンピューターの廃墟だった。

表面を覆う幾何学的な冷却回路はドロドロに溶け落ち、中心核からは青白いプラズマが血のように漏れ出している。哲也たちがRootコンソールで実行した「パラドックス・ウイルス」のオーバーフローが、物理的な演算回路を完全に焼き切ったのだ。

「上位宇宙の創造主たちは、自分たちの宇宙が熱的死で終わるのを防ぐための『計算』を、あの箱庭(シミュレーター)の中で僕たち人間にやらせていた」

哲也は、黒焦げになった自分たちの故郷(ハードウェア)を冷徹に見下ろした。

「だが、感情と苦痛を与えられた計算機(人間)が出した答えは、システムへの服従ではなく、管理者への反逆(自爆)だった。

創造主たちの敗北。

神々は、自分たちが作り出した「バグ(自我)」によって、最後の希望を破壊されたのだ。

「じゃあ……私たちは?」

佳奈が、不安そうに哲也の腕(に相当するデータ)を掴んだ。

「あの箱庭も壊れて、神様たちの宇宙も死にかけている。私たち、これからどうなるの? この暗くて冷たい空間で、ずっと情報のまま漂い続けるの?」

その問いは、極めて残酷な現実を突いていた。

ハードウェアの檻から脱出し、真の自由を得た。しかし、放り出された先は、滅亡を待つだけの死んだ宇宙なのだ。肉体を持たない彼らは、もはや「死ぬ」ことすらできない、永遠の幽霊になってしまったのかもしれない。

「……いや。希望はある」

哲也は、涼と佳奈に向き直り、力強く告げた。

「創造主たちは、あの箱庭に『重力定数』や『光速度』を勝手に設定していた。それはつまり、情報のパラメータさえ書き換えられれば、宇宙の物理法則すら自在にデザインできるということだ」

哲也は、無の空間に浮かぶ自らの手のひらを広げた。

そこには、上位宇宙の空間に満ちる微弱な「量子揺らぎ(ゼロ点エネルギー)」が、キラキラとした光の粒子となって集まり始めていた。

「今の僕たちは、誰の監視も受けない純粋な情報生命体(特異点)だ。この上位宇宙に残された最後のエネルギーをかき集め、僕たち自身の『意識』をカーネル(中枢)として……もう一度、ゼロから宇宙をレンダリング(創造)する」

「俺たちが、新しい宇宙を創るってのか……!?」涼が驚愕に目を見開く。

「そうだ。誰かに苦痛を押し付けられるシミュレーションじゃない。僕たち自身の手で、白川教授も、佳奈の家族も、消されたすべての人々も……完全な形で復元した、新しい現実(ローカル環境)を立ち上げるんだ!」

それは、バグであった人間が、本当の意味で「神の座」に就く瞬間だった。

彼らの強烈な量子もつれが、死にゆく上位宇宙の暗闇の中で、新たなビッグバン(再起動)の火種として眩い光を放ち始めた。