我思う、ゆえに我有り-30

第30話(最終話):不完全な現実と、観測者たちの軌跡

理学部棟の薄暗い階段を降りる彼らの足音は、かつてのワイヤーフレームの地下道で響いていた無機質なものとは全く違っていた。

靴底がコンクリートを叩くたびに、わずかな摩擦熱が生じ、筋肉が重力に抗って身体を支える。

それは、涼がこの新しい宇宙に丹念に組み上げた、完璧で、そして温かみのある物理法則の証明だった。

「……腹減ったな」

階段の途中で、涼が唐突に腹を鳴らして笑った。

「神様をやめて一分も経ってないのに、もう細胞がエネルギー(ATP)を要求してきやがる」

「エントロピーが増大している証拠よ。私たちは生きているんだから、エネルギーを消費して散逸させなくちゃ」

佳奈(かな)が、涼の背中を軽く叩きながら明るく言った。

ΔS>0\Delta S > 0(孤立系のエントロピーは増大する)。……残酷だが、美しい宇宙のルールだ」

哲也(てつや)は、窓から差し込む太陽の光に目を細めながら、二人の背中を追った。

中庭に出ると、初夏の日差しが木々の緑を鮮やかに照らし出していた。

ベンチでは学生たちが談笑し、遠くからサークルの勧誘の喧騒が聞こえてくる。誰一人として「テクスチャの剥がれたモブ」はいない。それぞれが固有の記憶と、複雑な感情を抱えて生きる、たった一つの特異点(人間)たちだ。

「おお、君たち。こんなところで何をしているね」

歩きスマホならぬ「歩き論文」をしていた白川教授が、三人の姿に気づいて立ち止まった。

パイプ煙草の独特な甘い香りが風に乗って漂ってくる。隔離領域(サンドボックス)で無限ループに囚われ、絶望の中で消滅していったあの亡霊の姿は、もうどこにもない。

「教授……!」

涼が、弾かれたように教授の前に進み出た。

「その……何か、変わったことはありませんか? 研究のデータとか、宇宙の観測結果とか……」

涼の問いに、教授は少しだけ眉をひそめ、持っていた論文の束をポンポンと叩いた。

「いや、実はな。今朝からどうもおかしいんだ。チリの電波望遠鏡から送られてくる宇宙背景放射(CMB)のデータなんだが……ノイズが、以前よりも『美しすぎる』気がしてな。まるで、誰かが意図的に物理モデルを綺麗にデフラグ(整理)したかのように、ノイズの分布が完璧なガウス分布に収束しているんだよ」

教授の言葉に、哲也と佳奈は思わず吹き出しそうになり、口元を押さえた。

涼が新宇宙をコンパイルする際、自分の実験の邪魔になる「理不尽なエラー」を無意識のうちに少しだけ修正してしまった痕跡だった。

「……気のせいじゃないですかね、教授」

涼は、顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。

「宇宙ってやつは、時々気まぐれを起こすもんですから。……俺、すぐにでも実験室に戻って、その『美しすぎるデータ』を解析してやりますよ。三十年かかっても、絶対に真理を暴いてみせます」

「頼もしいことだ。だが、たまには息抜きもしたまえよ」

教授は朗らかに笑い、再び論文に目を落として歩き去っていった。その後ろ姿には、何者にも監視されていない、純粋な探求の自由が溢れていた。

三人は顔を見合わせ、声を出して笑った。

その後、彼らは大学の裏手にある、佳奈の行きつけの喫茶店へと向かった。

カランカラン、と古びたベルが鳴る。

運ばれてきた三杯のコーヒー。

哲也は、自分の前に置かれた白い陶器のカップを両手で包み込んだ。

手のひらに伝わる、確かな熱。コーヒーの苦みと、鼻を抜ける芳醇な香り。

(システムが作った偽物の熱力学じゃない。僕たちが選び取った、本物の熱だ)

「ねえ、哲也」

佳奈が、カップにミルクを注ぎながら、ふと窓の外を見つめた。

「私たち、本当に全部忘れちゃったのかな? 上位宇宙の人たちは、今頃どうしているんだろう」

「分からない。ただ、僕たちが新しく立ち上げたこの宇宙の基盤(OS)は、もう誰の干渉も受け付けないよう、上位の階層との接続ポートを完全に閉じた」

哲也は、コーヒーを一口飲んだ。

「僕たちは完全に孤立した。もう二度と、宇宙のソースコードを覗き見ることはできない。死んだらどうなるのか、宇宙の果てに何があるのか……答え合わせは、もう誰にもしてもらえないんだ」

「上等だ」

涼が、ブラックコーヒーを一気に飲み干して笑った。

「答えが最初から分かってるシミュレーションなんて、クソくらえだ。分からないからこそ、俺たち物理学者の存在意義がある。……違うか?」

「違いない」

哲也は、親友のその言葉に深く頷いた。

もし、この世界が再び何らかの巨大なシステムによってシミュレートされたものだったとしても。

もし、人間の感情がただの電気信号のアルゴリズムだったとしても。

今、目の前で笑っている佳奈の笑顔の尊さや、真理を追い求める涼の情熱、そして、その二人を失いたくないと願った哲也自身の「痛み」は、絶対に偽物ではない。

『我思う、ゆえに我あり』

十七世紀の哲学者が暗い部屋で一人辿り着いたその言葉は、宇宙の管理者(神)に対する反逆のパスワードとしての役目を終え、本来の、最も純粋な真理へと還っていった。

疑いようのない「私」が、ここにいる。

そして、愛すべき「他者」が、ここにいる。

それだけで、この不完全で、残酷で、途方もなく美しい現実を生き抜く理由としては、十分すぎるほどだった。

「さて、と」

哲也はカップを置き、窓から差し込む眩しい光に向かって、ゆっくりと立ち上がった。

「行こうか。僕たちの『日常』へ」

二人が力強く頷き、立ち上がる。

喫茶店のドアが開き、三人は、エントロピーが増大し続ける無限の未来へと続く、光に満ちた喧騒の中へと歩き出していった。

(おわり)