第5章:赤い砂の記憶
「誰だ! そこで何をしている!」
海老名の鋭い声が、冷気漂う巨大な地下広間に反響した。
純白のスーツに身を包んだ海老名は、侵入者の姿を認めるや否や、空中に浮かぶホログラムコンソールを凄まじい速度で叩いた。通常、この空間には特権階級の幹部と、彼が許可した限られたメンテナンス・ドローンしか立ち入ることはできない。物理的な入り口は存在せず、地上からの経路は数万桁の暗号と空間ロックで封鎖されているはずだった。
「防衛システム起動! 侵入者を拘束しろ。重力制御、対象座標のみプラス4G!」
海老名の冷酷な声とともに、広間の空気が一瞬にして重く沈み込んだ。
間宮の頭上から、目に見えない巨大なコンクリートの塊が落ちてきたかのような猛烈な圧力が襲いかかる。膝が砕けそうになり、間宮はたまらず床に両手をついた。全身の血液が足元に集まり、視界が急激に暗転していく。
(……くそっ、体が……潰れる……!)
「下界のネズミが、どこから紛れ込んだ?」
海老名が革靴の足音を響かせ、余裕の歩みで近づいてくる。 その手には、銀色に鈍く光る細いステッキのような端末が握られていた。
「この『計時装置』は、神の心臓だ。お前のような薄汚いサルが呼吸をしていい場所ではない。お前の存在という変数を、今ここでゼロに書き換えてやる」
海老名がステッキの先端を間宮に向けた、その瞬間だった。
間宮の右ポケットにねじ込まれていた「ひどく削れたカード」が、まるで心臓のようにドクンと熱を帯びた。
「ガッ……!」
間宮は無意識にポケットからそのカードを引き抜き、重力に逆らうようにして、頭上の青白い水晶体——計時装置に向けて高く掲げた。
——ピィィーン!
広間の空気を切り裂くような、甲高い高周波が鳴り響いた。 カードの削れた断面から、赤いノイズのような光が漏れ出し、それが計時装置の放つ青白い光と空中で激突する。
「な、何だ……!?」
海老名が驚愕の声を上げた。 間宮を押し潰していた4Gの重力場が、カードを中心にしてすうっと霧散していく。そればかりか、広間全体の空間制御がパニックを起こしたように明滅し始めた。
「防衛システムが……相殺されている? バカな! あり得ない! それは、ただの物理的な記録媒体ではないのか!?」
海老名はコンソールを乱打したが、システムはエラーコードを吐き出すばかりだった。
間宮は荒い息をつきながら立ち上がり、手の中のカードを見つめた。 その表面に浮かび上がる、無数の削り痕。それは単なる鍵ではなく、「世界、時代を伴った開閉の記録」が凝縮された、高次元のデータ・キャッシュだった。
そして、そのカードの赤い光を見つめていると、間宮の脳裏に、これまでモヤがかかっていた記憶の断片が、濁流のように流れ込んできた。
『——完璧な管理の行き着く先は、完全なる静寂だ』
誰かの声がする。いや、自分の声だ。 見渡す限りの赤茶けた荒野。空は薄暗く、二つの小さな月が浮かんでいる。風の音一つしない。鳥の鳴き声も、虫の這う音も、都市の喧騒もない。 ただ、完璧に計算されたアルゴリズムだけが、生命のいなくなった星で、永遠に「最適解」を繰り返し演算し続けている。
(ここは……地球じゃない。死んだ星……火星だ。俺は、そこで……)
間宮の頭痛が頂点に達した。彼はかつて、あの赤い星で「不確実性ゼロの完全な管理社会」を実験した。だが、完璧な安全と予測可能性を手に入れた文明は、進化の原動力を失い、やがて自ら歩みを止めて死に至ったのだ。
その圧倒的な絶望から逃れるため、彼は自身の記憶を封印し、地球へ逃亡した。ただの「傍観者」として、カオスに満ちた人間の世界を放浪するために。
「お前……」
海老名の声が震えていた。 彼は、間宮の手にあるカードのデータ・シグネチャー(署名)を、ついにシステム上で読み取ったのだ。
「そのシグネチャー……ペンタグラムの第六の暗号鍵……。そんなバカな。第6の幹部(火星担当)は、数千年前に自らの星を滅ぼし、消滅したはずだ……!」
海老名は後ずさりし、恐怖と畏敬の入り混じった目で間宮を見た。 下界のサルではない。目の前にいる薄汚れた男は、自分たちよりもはるかに古い時代から存在する、特権階級の元・最高幹部の一人だった。
間宮は冷たい汗を拭い、海老名を静かに見据えた。
「……思い出したよ。お前たちがここで何をしているのか」
間宮の声は、先ほどまでの「記憶を持たない放浪者」のものではなかった。数千年の時を生きた者の、深く、静かで、圧倒的な重圧を伴う声だった。
「不確実性を恐れ、人間の歴史を箱庭に閉じ込める。お前たちがやっていることは、あの赤い星で俺が犯した罪と全く同じだ。この時計が時を刻む限り、人類は緩やかに『死』に向かっている」
間宮が一歩踏み出すと、計時装置の青白い光が、怯えるように激しく明滅した。 永遠の命を持つ特権階級にとって、間宮の存在自体が「予測不能な最大のバグ」となり得る。
「来るな! 来るなァッ!!」
海老名は取り乱し、広間の緊急防壁を作動させた。 間宮と海老名の間を分断するように、透明なエネルギーシールドが展開される。
間宮はシールドを破ろうとはしなかった。まだ、自分の記憶も、このカードの真の使い方も、完全には掌握できていない。ここで無理に装置を破壊すれば、どのような時空の崩壊が起きるか予測できなかった。
「……また来る」
間宮は短くそう告げると、背を向け、地下への階段へと向かって歩き出した。 カードの力によって、閉ざされていたはずの金属の扉が音もなく開き、間宮を外の世界へと逃がす。
残された海老名は、シールドの向こう側で、膝から崩れ落ちた。 完璧であったはずの神の領域に、致命的なヒビが入った瞬間だった。
『長友さん。……信じられない現象を傍受しました』
同じ頃、超高層ビルの大統領候補・長友のペントハウス。 AIトリムの声が、かつてないほど混乱していた。
『東京の地下拠点(マスターノード)の計時装置が、一時的にダウンしました。何者かの物理的なアクセスにより、システムが「第6の管理者権限」という未知のコードを読み込み、防衛システムが強制停止させられたようです』
長友は、手に持っていたペーパーナイフを机に突き立てた。
「海老名以外の何者かが、あの密室に侵入したというのか?」
長友は急いでディスプレイの映像を切り替えた。 東京の「入口のないビル」の周辺監視カメラの映像。そこには、地下のグリッドから這い出て、酷暑の街へと歩き去っていく一人の男の背中が映っていた。
ボロボロの服を着た、ただの放浪者のような男。
「あいつは……。俺が最初に、このビルを見つけた時にいた男……」
長友の口角が、ゆっくりと歪んだ。 完璧だと思っていた特権階級のシステムに、神々すら制御できない「巨大なバグ(イレギュラー)」が存在する。
「……面白くなってきた。神々にも計算外の事態が起きるということだ」
長友は、もうすぐ手に入る大統領という絶対的な権力と、あの正体不明の男の存在が交差する未来の盤面を思い描き、低く笑い声を上げた。

