第8章:劇薬とノイズ
無数のカメラのフラッシュが、ホワイトハウスの記者会見室(ブリーフィングルーム)を白昼のように照らし出していた。
大統領の紋章が刻まれた演台に立つ長友は、自信に満ちた、しかしどこか憂いを帯びた完璧な表情でマイクに向かった。
「我が国の偉大な労働者と産業を守るため、私は本日、大統領令に署名しました。ユーラシア・ブロックからの先端技術部品およびレアアース等の輸入品に対し、即時25パーセントの追加関税を発動します」
その宣言は、世界経済に対する巨大な爆弾だった。 記者席から一斉に怒号のような質問が飛ぶ。同盟国への根回しもない、あまりにも唐突で暴力的な保護主義政策。株価の大暴落は火を見るよりも明らかだった。
長友は記者たちの喧騒を冷ややかに見下ろしながら、心の中で嗤った。 (これで満足か、特権階級の『神々』よ。お前たちの望み通り、北米のGDPを削り、ユーラシアに冷や水を浴びせてやったぞ)
これは、北米担当の幹部から直接下された指示(アルゴリズム)の実行だった。彼らは自らのブロックの経済を意図的に停滞させ、対立するユーラシア担当幹部への嫌がらせを行うためだけに、数千万人の生活を犠牲にしたのだ。
会見を終え、大統領執務室に戻った長友は、ネクタイを乱暴に引き剥がした。 「トリム。市場の反応は」
『ニューヨーク・ダウは会見開始からわずか10分で1200ドル下落。現在もサーキットブレーカー発動の閾値に向かって垂直降下中です。ユーラシア各国の市場も連鎖的に暴落を開始しました』
「いいぞ。だが、ただ言われた通りに踊ってやる俺ではない」 長友は、執務室の裏に隠されたセキュアなコンソールを開いた。
「仕掛け(トロイの木馬)は、無事に流し込めたか?」
『はい。世界中の機関投資家がパニック売り(アルゴリズム・トレード)を実行するその膨大なトランザクション・データの中に、微小な「意図的バグ」を忍ばせました』
長友が仕掛けた罠。それは、金融市場の暴落データに偽装した「認識阻害ノイズ」だった。 特権階級が東京の地下にある「計時装置」で世界を同期させるには、人類の動向を正確に予測し、データを吸収し続ける必要がある。長友はその膨大なデータストリームの中に、人間の非合理的なパニックを装った数式(ノイズ)を混入させたのだ。
「奴らのシステムは完璧すぎるがゆえに、世界中から集まるビッグデータを無条件で『真実』として飲み込む。その中に微量の毒を混ぜ続ければ、やがて奴らの時計の針は、気づかないうちにわずかに狂い始めるはずだ」
長友の目は、ハンターのそれに変わっていた。
同じ頃、東京・灰色のビルの地下広間。
「やりすぎだぞ、北米! 貴様が飼い慣らしたあの若造、私のブロックの主要産業を直撃する関税をかけおったな!」 ホログラムで投影されたユーラシア担当の幹部が、軍服風のコートを翻して激怒していた。
「何を怒っている。事前の取り決め通り、私が北米のGDPを意図的に下げてバランスを取っただけだろう?」 北米担当の幹部が、葉巻をくゆらせながらニヤリと笑う。 「それにしても、あの長友という男の演説は素晴らしい。サルどもは完全に騙され、自国の不利益すら『強いリーダーシップ』と勘違いして熱狂している。最高のエンターテインメントだ」
「遊びではない! 私のブロックでは、関税のあおりを受けた工場労働者の暴動予測値が、許容限界(スレッショルド)を超えそうになっている。ただでさえ、先日の中東のエネルギー危機で不満が溜まっているのだぞ!」
ユーラシアと北米の幹部が激しく罵り合う中、事務官の海老名は、計時装置のコンソールを見つめながら微かに眉をひそめていた。
「……おかしい」 海老名が呟く。 「市場の暴落による不確実性の増大は予測範囲内ですが、計時装置の同期アルゴリズムに、ほんのわずかな……本当に微細な『遅延(レイテンシ)』が発生しています」
「遅延だと?」北米幹部が不機嫌そうに振り返る。
「はい。世界中のデータ処理速度が、通常より0.00001秒遅い。……まるで、システムが何か異物を飲み込んで消化不良を起こしているような」
海老名は嫌な予感を覚えた。 先日の、あの「削れたカード」を持つ男(間宮)の侵入から、どうにもシステムの挙動が不安定だ。まさか、あの時の高次元データの衝突が、計時装置のコアに目に見えないヒビを入れているのではないか。
「気にするな、海老名。下界のサルどもがパニックを起こして、原始的なネットワークを詰まらせているだけだ」 北米幹部は一蹴した。 「それよりもユーラシア、暴動が起きそうならお前の得意な『弾圧』で黙らせればいい。我々には永遠の時間があるのだ。
幹部たちの醜い言い争いは終わらない。 彼らは自分たちが「絶対的な支配者」であるという傲慢さゆえに、足元で二つの致命的な毒が回り始めていることに気づいていなかった。
一つは、長友が大統領の権限を使って流し込み続ける「ノイズ」。 そしてもう一つは、覚醒し、東京の雑踏へと消えた「第6の幹部」——間宮の存在である。
ワシントンD.C.の地下。
「さて、神々の目を少しだけ曇らせることには成功した」
長友はディスプレイに映る世界地図を眺めながら、満足げにコーヒーを口に運んだ。
彼が流し込んだノイズによって、ペンタグラムの監視システムは「人間の予測不能な行動」の処理にリソースを割かれ、一時的にその精度を落としているはずだ。
「トリム。奴らの監視網(ファイアウォール)が手薄になっている今がチャンスだ。NSAの全衛星ネットワークを東京に集中させろ。何としても、『あの男』を、ペンタグラムの猟犬どもより先に見つけ出すんだ」
『了解しました。東京全域のサーマルカメラおよび生体認証スキャン、再実行します』
世界を股にかけた権力闘争と、水面下で進む神殺しの準備。 長友の歪んだ野望は、大統領という最高の仮面を被ることで、新たな領域へと足を踏み入れていた。

