観察者-14

第12章:玉座を焼く炎

「……信じられない光景です。ペルシャ湾に展開していた巨大な空母打撃群が、突如として全艦、反転を開始しました。ホワイトハウスからの公式見解はまだありませんが、現地ではすでに深刻な権力の空白(パワーバキューム)が生じ、武装勢力同士の衝突が……」

大統領執務室(オーバル・オフィス)の壁面に投影された複数のニュースチャンネルが、一斉に中東の未曾有の混乱を報じている。原油価格のチャートは垂直に跳ね上がり、特権階級が精密にコントロールしていたはずの「緩やかなインフレ曲線」は完全に破壊されていた。

長友は、革張りの椅子に深く身を沈め、そのカオスを極上の映画でも観るかのように眺めていた。

その時、執務室の空間が、かつてないほど乱暴に歪んだ。 空気が焦げるようなオゾンの臭いとともに、黄金の装飾品をジャラジャラと鳴らす巨漢——ペンタグラムの中東・アフリカ担当幹部が、ワームホールから怒り狂った形相で飛び出してきたのだ。

「貴様ァッ!! 長友ォ!!」

巨漢の幹部が咆哮した瞬間、執務室内の重力が局地的に暴走し、重厚なマホガニーのデスクが真っ二つにへし折れた。長友の体も見えない巨大なハンマーで殴られたように壁へ吹き飛ばされ、床に叩きつけられる。

「ゲホッ……!」 肋骨が軋む音を聞きながら、長友は床に這いつくばったまま、口の端から血を流して嗤った。

「これは……随分と荒々しいご訪問ですね、中東の管理者(ゼウス)殿。ノックの仕方も忘れてしまわれたか」

「黙れ、下界のサルが!」 幹部は顔を真っ赤にして長友を見下ろした。 「我がブロックの艦隊を勝手に撤退させるとはどういうことだ! おかげで私が数十年かけて構築した原油供給のアルゴリズムと、局地戦のシナリオが完全に灰になったぞ! 大統領という首輪を与えられて、飼い主の顔を忘れたか!」

再び重力が長友を押し潰そうとする。 しかし、長友は苦痛に顔を歪めながらも、ゆっくりと立ち上がった。

「飼い主の顔なら、よく覚えていますよ。……だが、今この瞬間に私を殺せば、中東の混乱は誰が収拾するのです?」

幹部の動きが、ピタリと止まった。

「私がここで謎の死を遂げれば、超大国は報復として中東を文字通り火の海にするでしょう。あなたのブロックは完全な無秩序(カオス)に陥り、計時装置の同期アルゴリズムは決定的なエラーを吐き出す。……違いますか?」

長友の目は、血走っていながらも、恐ろしいほどに冷徹で理性的だった。

ペンタグラムの幹部たちは、絶対的な権力を持っているがゆえに、「世界の安定」に依存しきっている。世界がカオスに陥れば、彼らの不老不死を支えるネットワーク自体が維持できなくなるのだ。 長友は、その「神々のジレンマ」を完全に計算した上で、自らを人質にして盤面をひっくり返したのである。

「貴様……最初から、我々ペンタグラムを……!」

「私は大統領(プレジデント)です。自国の利益(アメリカ・ファースト)を追求した結果、中東から手を引いただけのこと。もし文句があるのなら……」 長友は、スーツの埃を払いながら、巨漢の幹部を真っ向から見据えた。

「あなたのその足で、直接泥水の中を歩いて火消しをされてはいかがかな? まさか、玉座から一歩も動かずに世界を支配できると、本気で思い上がっていたわけではありますまい」

中東担当幹部は、屈辱と怒りで全身を震わせた。だが、長友の言う通り、今ここでこの「狂犬」を殺せば、システムは混乱する。彼はギリッと歯を鳴らし、憎悪に満ちた目で長友を睨みつけた。

「……後悔するぞ、長友。必ず、貴様のその傲慢な首を切り落としてやる」

巨漢の幹部は空間の歪みの中に姿を消した。 重力が元に戻り、執務室に静寂が下りる。長友は乱れたネクタイを締め直し、口元の血をハンカチで拭いながら、低く笑った。

「トリム」
「はい、長友さん。中東ブロックの特権階級ネットワークにて、甚大なトラフィックの乱れと、エラー修正の試みを傍受しています」
「いいぞ。奴らのリソースは今、中東の火消しに釘付けだ。東京の防衛網はさらに手薄になる」

長友の視線は、再び東京の監視マップへと向けられた。


東京、灰色のビルの地下第2層。

「ハァッ……ハァッ……!」

間宮は、壁に寄りかかりながら荒い息を吐いていた。 彼の足元には、完全に沈黙した三体のイージス(防衛ゴーレム)の残骸が転がっている。金属の破片とオイルが散乱し、通路は破壊の爪痕で凄惨な有様になっていた。

間宮のコートは切り裂かれ、左腕からは血が滴り落ちている。 特権階級としての圧倒的な力を持たない今の肉体で、純粋な殺戮機械を破壊するのは至難の業だった。彼は通路の配管を破壊して高圧蒸気を噴出させ、イージスのセンサーを焼くことで、かろうじて三体同士を同士討ちさせることに成功したのだ。

「……随分と、人間らしくなったものだ」

痛む左腕を押さえながら、間宮は自嘲気味に呟いた。 かつて火星の管理者であった頃、彼は怪我一つ負うことなく、ただコンソールから星の運命を決定していた。痛みも、疲労も、死の恐怖もなかった。 だが今、傷つき、血を流し、息を切らして前に進む自分の肉体には、確かな「生」の熱が宿っている。

「これが、俺が火星から逃げてまで求めた、不確実性というやつか……」

間宮は顔を上げ、通路の最奥にそびえ立つ、重厚な防爆扉を見据えた。 あの扉の向こうに、東京のマスターノード——青白い水晶体(計時装置)と、海老名がいる。

間宮は右手の「削れたカード」を強く握り直した。 赤い光が、主の意思に呼応するように脈打つ。

「待っていろ、海老名。お前たちの退屈な永遠を、終わらせてやる」


防爆扉の向こう側、地下広間。

海老名はメインコンソールの前で、絶望に顔を歪めていた。 モニターに表示されていた三体のイージスの生体反応(シグナル)が、先ほど完全にロストしたのだ。

「バカな……。外部ネットワークから切り離された純粋な物理防衛が、たった一人の劣化した人間に破られたというのか?」

海老名は震える手で、再びペンタグラムの幹部たちへの緊急通信を試みた。 だが、返ってきたのは冷酷なシステムメッセージだけだった。

『エラー。中東ブロックにおける大規模な演算処理のため、ワームホール通信のリソースが制限されています。幹部への接続を確立できません』

「……見捨てられた、だと?」

海老名は、自分が絶対的だと信じていた「特権階級のネットワーク」が、内部(間宮)と外部(中東の混乱)からの同時多発的なエラーによって、完全に機能不全に陥っていることを理解した。

ドスゥン……!

その時、重厚な防爆扉が、外側から重い衝撃を受けた。 間宮が到達したのだ。

海老名は後ずさりし、広間の中央で冷たく時を刻み続ける計時装置を見上げた。 神々のシステムの危機が、すぐ目の前まで迫っていた。