第14章:神々の墜落
——ロパキィィィンッ!
東京の地下深くで計時装置の水晶体が完全に砕け散った瞬間、その破壊の波動は物理的な空間を超え、量子ネットワークを通じて地球全土へと波及した。
『警告。マスターノードからの同期信号がロスト。……世界各地の99の観測拠点(サブノード)の熱源および通信プロトコルが、連鎖的に消失しています』
ワシントンD.C.の地下バンカー。AIトリムの合成音声が、かつてないほどの処理負荷に僅かにノイズを交えながら状況を読み上げていく。 大統領・長友の目の前にある巨大な世界地図のディスプレイでは、特権階級(ペンタグラム)が世界中に張り巡らせていた「光の網目」が、まるで電源を落とされた都市の夜景のように、次々とブラックアウトしていった。
「見ろ、トリム。神々が空から墜ちていくぞ」
長友の瞳には、狂気じみた歓喜が浮かんでいた。 彼らの特権の源泉であった「予測可能な絶対時間」が、間宮の叩き込んだ火星の死のデータによって矛盾を起こし、システム全体がフェイルセーフを飛び越えて自壊したのだ。
中東、ペルシャ湾上の特権階級専用の空中浮遊拠点。 長友の引き起こした空母打撃群の撤退によるカオスを収拾するため、中東・アフリカ担当の幹部(ゼウス)はホログラムコンソールを叩き割る勢いで指示を飛ばしていた。
その時、拠点を支えていた反重力エンジンの鼓動が突如として停止した。
「……何だ? 動力炉がなぜ落ちる!」
巨漢の幹部が怒鳴り声を上げた直後、彼の心臓を「見えない氷の刃」が貫いたような悪寒が襲った。 数百年間、細胞の劣化を完璧に防いできた環境維持アルゴリズムのリンクが、唐突に切断されたのだ。
「ガァァッ……! 息が……!」
巨漢の幹部は胸を掻き毟り、膝から崩れ落ちた。 鏡のように磨き上げられた床に映る自分の顔を見て、彼は絶叫した。張り詰めていた若々しい肌が急速に水分を失い、深い皺が刻まれ、黄金の装飾品を支える首の筋肉が衰え萎縮していく。
「バカな! 東京の拠点で何が起きた!? ワームホールを開け! すぐにここから脱出——」
しかし、空間を歪めるはずの装置は、ただの鉄の塊と化していた。 眼下には、彼自身がデザインし、そして長友によって火をつけられた「制御不能の戦火」が広がる中東の海。絶対的な力を持っていた神は今、ただの老いぼれた人間として、墜落していく鋼鉄の箱の中に閉じ込められたのだ。
同様の悲劇(彼らにとっては)は、世界中で同時に発生していた。 北米担当、ユーラシア担当、南米・オセアニア担当、そしてアジア担当。 五人の最高幹部たちは、それぞれのブロックにある「入口のないビル」や秘密のシェルターの中で、永遠の命と瞬間移動の手段を同時に失い、絶望の叫びを上げていた。
「あ、あああ……」
東京、灰色のビルの地下広間。 水晶体の破片が散乱する中、海老名は床に這いつくばり、自分の両手を見つめていた。 純白だったスーツは汚れ、その手はシミと皺だらけの老人のそれに変わっている。
「終わった……。我々の永遠が、完璧な世界が……」
海老名は虚ろな目で、静かに立ち尽くす間宮を見上げた。
間宮もまた、自身の肉体に起きている急激な変化を感じ取っていた。 視界の隅にあった、高次元のエネルギーを知覚する超感覚が失われ、ただの人間の五感だけが残る。左腕の傷口から流れる血の熱さ、地下の冷たい空気、肺が酸素を求める生々しい感覚。 不老の幹部から、明日死ぬかもしれない不確実な「人間」への完全な転落。だが、間宮の顔に後悔はなかった。
「海老名。お前が信奉していた神殿は崩れた。……これで、人類は自由だ」
間宮が背を向け、広間の出口へと向かおうとした時、海老名が狂ったように甲高い笑い声を上げた。
「ヒィッ……ハハハハッ! 自由だと? 莫迦め! お前も、我々も、ここからは出られないんだぞ!」 海老名は、皺だらけの指で、広間の天井を指差した。
「このビルには『入口』がない! 我々が地上と行き来していたワームホールは、計時装置の崩壊と共に消滅した! 物理的な通路はコンクリートで完全に封鎖されている! お前は、永遠の命を捨てて、この暗い地下牢で飢え死にする道を選んだのだ!」
特権階級が自らの安全のために作り上げた、完璧な密室。 それが今、彼ら自身を閉じ込める永遠の棺桶へと変貌したのだ。
間宮は足を止め、海老名を振り返ることなく、静かに答えた。
「俺は、過去の幻影を断ち切るためにここに来た。……ここから先をどう生きるかは、地上の人間たちが決めることだ」
間宮は、開け放たれた防爆扉を抜け、冷たい地下通路へと歩み去っていった。 残された海老名は、完全に沈黙した水晶体の残骸にすがりつき、誰に届くこともない嗚咽を漏らし続けた。
『長友さん。ペンタグラムの全ネットワーク、完全に沈黙しました。彼らの世界支配のアルゴリズムは、地球上から消滅しました』
ホワイトハウスの地下バンカー。 トリムの最終報告を聞き終えた長友は、ゆっくりと立ち上がり、大きく両手を広げた。
「素晴らしい。……神は死んだ。そして、糸を切られた操り人形(人類)たちは今、どう動いていいか分からず、世界中でパニックを起こしているだろう」
長友の言う通り、地上は未曾有のカオスに飲み込まれようとしていた。 ペンタグラムの「指示(プロンプター)」を失った世界各国の首脳たちは、突然の事態に機能不全に陥り、金融市場は暴走し、物流網はフリーズしている。今まで「見えない手」によって守られていた安定が、一瞬にして剥がれ落ちたのだ。
長友は、鏡に向かってネクタイを締め直し、完璧な大統領の仮面を被った。
「トリム。緊急の大統領執務室演説(オーバル・オフィス・アドレス)の準備をしろ。全米、いや、全世界の主要ネットワークをジャックして同時中継だ」
『演説の原稿は、ペンタグラムの過去のデータを参照して作成しますか?』
「バカを言うな」長友は冷ややかに笑った。「もう台本(アルゴリズム)は存在しない。俺が、俺自身の言葉で、このパニックに陥った世界に『新たな秩序』を示してやる」
世界最強の国家のトップという絶大な権力を手にしたまま、特権階級という足枷を完全に外した男。 長友は、地下バンカーのエレベーターに乗り込み、地上への上昇を始めた。
「さあ、予測不能な『人間の時間』の始まりだ。俺が、このカオスを支配する新しい王になる」

