第17章:反撃の狼煙
消毒液とカビ、そして安酒の入り混じった饐(す)えた匂いが立ち込める地下診療所。 パイプベッドの上で、間宮は浅い眠りから目を覚ました。
左腕の傷はモグリの老医者によって乱暴に縫合されていたが、焼けるような熱を持っている。特権階級の「不老の肉体」を失った彼にとって、この鈍い痛みと発熱は、自分が今や限りなく死に近い「ただの人間」に成り下がったことを容赦なく突きつけていた。
間宮はベッドから身を起こし、傍らのパイプ椅子に置かれていた自分のボロボロのコートを羽織った。
(長友は、大統領という最強のカードとAIを持っている。奴の監視網は世界中のデジタル・フットプリントを血眼になって洗っているはずだ……)
間宮は、火星の管理者として何千年も生きた知恵と、傍観者として地球の泥水の中を這いずり回った経験をフル回転させていた。 まともにネットに接続すれば、数秒でNSA(国家安全保障局)の顔認証とAI「トリム」に捕捉され、無人ドローンからミサイルを撃ち込まれるだろう。
奴の目を盗むには、奴が「予測できないカオス」——すなわち、完全にアナログで非合法な、電子の光が届かない地下深くのネットワークを利用するしかない。
間宮はモグリの医者にいくばくかの金(インゴットの欠片)を追加で握らせると、裏口から新宿のさらに深いアンダーグラウンドへと足を踏み入れた。 向かった先は、かつて彼が傍観者として街を放浪していた頃、身分証を持たない者たちのための「偽造」や「暗号通信」を請け負っていた情報屋のねぐらだ。
廃棄された地下鉄の変電設備を不法占拠したその空間には、無数の旧式サーバーと、熱を持ったケーブルが静脈のように這いまわっていた。
「……生きてたか、おっさん」
薄暗いモニターの光に照らされて、電子タバコを吹かす痩せこけた若い男が振り返った。裏社会のハッカー、「カラス」だ。彼はペンタグラムが支配していた完璧な世界の中で、唯一「世界のバグ」を肌で感じ取り、あらゆる公式ネットワークから自らを切り離して生きてきた偏執狂(パラノイア)だった。
「ひどいツラだな。数日前から世界中の通信インフラがイカれちまって、表の連中はパニックだが……あんたのその傷、ただの喧嘩じゃなさそうだ」
「カラス。お前の持っている独立回線(ダークウェブ)の、さらに底の底を貸してくれ」 間宮は左腕を庇いながら、カラスの座るキャスター付きの椅子を引き寄せた。 「長友……いや、アメリカ合衆国大統領のシステムに、足跡を残さずに潜り込むルートが必要だ」
カラスは電子タバコを落としそうになり、むせ返った。
「はぁ!? あんた、熱で頭がイカれたのか? 世界中のインフラがダウンして、今やあの大統領が唯一の神様みたいに振る舞ってるんだぞ。NSAのファイアウォールなんて、今は針の穴一つ開いてねぇ。触れた瞬間に黒焦げにされる」
「神様じゃない。あいつは神(ペンタグラム)の玉座を後ろから刺して、王冠を奪い取っただけの簒奪者だ」
間宮の静かな、だが圧倒的な重圧を伴う声に、カラスは息を呑んだ。
「……数日前の、世界的なブラックアウト。まさか、あんたが絡んでるってのか?」
「俺は時計を壊しただけだ。だが、あの男はその壊れた時計の部品を使って、人類を自分だけのチェス盤に乗せようとしている」
間宮は、ターミナルのキーボードに血の滲む手を置いた。
「俺一人じゃ、あの巨大なシステムは物理的に壊せない。だが、奴の目(監視網)を盲目にすることはできるはずだ」
カラスはしばらく間宮の目を見つめ返していたが、やがて狂ったように笑い出した。
「ハハハッ! 最高だ。完璧すぎた気味の悪い世界がぶっ壊れたと思ったら、今度は超大国の大統領相手に喧嘩を売るハメになるとはな! ……いいぜ、乗ってやる。俺の回線は、どこの衛星も経由しない完全な物理の地下ケーブル網だ。奴のAIでも、そう簡単には足取りは掴めねえ」
カラスが猛烈な速度でキーボードを叩き始める。 ブラウン管のモニターに、無数のコマンドプロンプトが立ち上がり、長友の陣取る巨大なネットワークの「外壁」を、ノイズに偽装して探り始めた。
『長友さん。……極東エリア、東京のダークウェブ層にて、微小な不規則性トラフィック(アノマリー)を検知しました』
ワシントンD.C.の地下バンカー。 ワイングラスを傾けていた長友は、ピクリと眉を動かした。
「ただのサイバー犯罪者のノイズじゃないのか?」
『違います。使用されている暗号化プロトコルは極めて原始的ですが、ルーティングのパターンに、特権階級(ペンタグラム)の「第6の暗号鍵」に酷似したアルゴリズムの痕跡が混じっています』
「……見つけた」
長友はグラスを置き、ディスプレイに映る東京のマップを睨みつけた。 赤く点滅しているのは、新宿の地下深層。
高次元の魔法を失ってもなお、泥水の中から神の玉座に牙を剥こうとする間宮の執念。長友はその泥臭い反抗に、冷酷な歓喜を覚えた。
「トリム。日本の公安と、横田基地に駐留している特殊作戦群に『極秘のテロリスト制圧指令』を出せ。大統領の直接命令だ。……対象は生け捕りにしなくていい。その地下施設ごと、物理的に焼き払え」
『了解しました。対象座標へ、攻撃ドローンおよび制圧部隊を展開します』
東京、新宿地下の変電設備跡。
「よし、第一層のファイアウォールの隙間を見つけたぞ! ここからパケットを偽装して……」 カラスが歓声を上げた瞬間だった。
間宮の背筋に、生物的な悪寒が走った。特権階級の超感覚ではない。死線をくぐり抜けてきた人間の、純粋な生存本能が警鐘を鳴らしていた。
「カラス、離れろ!!」
間宮がカラスの襟首を掴んで強引に引き倒した直後。 分厚いコンクリートの天井が、轟音とともに爆破された。
ガラガラと崩れ落ちる瓦礫の山。もうもうと立ち込める粉塵の向こうから、暗視ゴーグルを装着し、最新鋭の重武装に身を包んだ特殊部隊が、レーザーサイトの赤い光の束を部屋中に走らせながら降下してきた。
「ターゲット確認! 撃てッ!」
無慈悲な銃声が地下空間に響き渡り、旧式サーバーが次々と火花を散らして粉砕されていく。 長友は、間宮がネットに触れた瞬間に、一切の躊躇なく物理的な「死」を送り込んできたのだ。
「クソッ、何なんだよこいつら!」 瓦礫の陰で頭を抱えるカラス。
「長友の猟犬だ……! 走れ、下水道へ抜けるぞ!」
間宮は、傷の痛みに顔を歪めながらもカラスの背中を押し、弾幕の中を旧地下鉄の連絡通路へと向かって駆け出した。
ただの人間に戻ったかつての神と、裏社会のハッカー。 圧倒的な権力とAIを持つ暴君・長友に対する、絶望的で泥臭いレジスタンス(抵抗)の火蓋が、ついに切って落とされた。

