第23章:カオスの残響
ホワイトハウスの地下から地上へ出ると、そこには火薬の煙と、夜明けの冷気が入り混じった奇妙な静寂が広がっていた。 長友を連れ去った装甲車の轍(わだち)が、凍てついたアスファルトの上に黒々と残っている。
「……本当に行っちまうのか、おっさん」
カラスが、朝日に目を細めながら間宮の背中に声をかけた。
彼の腕には、世界を救った唯一の物証である「認識阻害ノイズ」のストレージが大切そうに抱えられている。
間宮は立ち止まり、包帯の巻かれた左腕をさすった。熱は下がり始めていたが、傷口の鈍い痛みは、彼が「神」から「人」になった証明としてそこに在った。
「ああ。俺の役割は、時計を壊すことまでだ。……これから世界をどう作り直すかは、お前たちの仕事だよ」
「無責任だな。あんた、かつては火星を治めてた幹部様なんだろ? 指導者になればいいじゃないか」
カラスの冗談めかした言葉に、間宮は自嘲気味に首を振った。 「俺は一度、完璧を求めて世界を殺した男だ。そんな奴が、また上に立つべきじゃない。……これからは、名もなき傍観者として、この不確実な世界をただ見守らせてもらうよ」
間宮はそれだけ告げると、混乱の冷めやらぬワシントンの街角へと歩き出した。 もはや、彼を追う特権階級の「猟犬」も、長友のAI「トリム」も存在しない。彼は、数千年ぶりに手に入れた真の自由を噛みしめるように、ゆっくりと一歩ずつ進んでいった。
同じ頃、地球の裏側。東京・新宿。 朝日を浴びる「入口のない灰色のビル」は、かつての威圧感を失い、ただの巨大な墓標のように沈黙していた。
地下最深部の広間。 砕け散った計時装置の破片が散らばる冷たい床に、海老名は座り込んでいた。 かつての優雅な身なりは見る影もなく、シワだらけの手で、光を失った水晶の破片を弄んでいる。
「……誰も、来ないな」
海老名は掠れた声で呟いた。 ワームホールが消滅した今、この場所は地上から完全に隔離された。5人の幹部たちも、各々の拠点で老化と死の恐怖に怯え、互いを助ける余裕などないだろう。
ふと、海老名は天井を見上げた。 かつては「管理すべきサル」たちの足音だと思っていた振動が、今はどこか懐かしく、力強い生命の鼓動のように聞こえてきた。 自分の寿命が、あと数日か、あるいは数時間か、それすら予測できない。 だが、その「予測不能な死」への恐怖こそが、今の彼に残された唯一の、生の実感だった。
世界は、かつてない激動の時代を迎えていた。 特権階級の「調整」という重石が取れたことで、各地で政治の対立、経済の再編、そして予測不能な小競り合いが発生している。 しかし、同時にそれは、人類が自らの意志で新しいエネルギーを開発し、新しい絆を築こうとする「進化の季節」の始まりでもあった。
ワシントンの街路樹の下、間宮はベンチに座り、登り始めた太陽を見つめていた。 ポケットから取り出した、ただの金属片と化した「カード」を、彼は静かにゴミ箱へと放り捨てた。
火星の死の記憶は、もういらない。 これから刻まれるのは、傷つくことを恐れない、青い星の新しい歴史だ。
間宮は深く息を吸い込み、雑踏の中へと消えていった。 一人の、明日を生きる人間として。
(第2部:操り人形の王 完)

