第3部:火星の傍観者
第24章:零(ゼロ)の平原
——記憶は、いつも赤い砂の匂いから始まる。
間宮(かつてのコードネーム:管理官M)は、視界を覆い尽くす赤茶けた地平線を眺めていた。そこには風もなく、音もなかった。空には二つの歪な月が浮かび、太陽は地球で見るよりも小さく、冷たい。
数千年前の火星。そこは、人類の選ばれしエリートたちが「究極の理性的社会」を築き上げた、銀河で最も美しい地獄だった。
「管理官M。第4居住区の感情係数が、規定値を0.02パーセント上回りました。修正プログラムを走らせますか?」
若き日の間宮の隣で、実体を持たないホログラムの副官が淡々と告げた。 当時の間宮は、今のボロボロのコート姿からは想像もつかない、冷徹なまでに洗練された銀色の官服を纏い、感情を一切排した瞳で数千億のデータセットを処理していた。
「不要だ。感情係数の上昇は、昨日発生した『供給システムの微細な遅延』による一時的な不安に過ぎない。供給を1.5パーセント増幅し、居住区の酸素濃度に微量の鎮静成分を混入させろ」
「了解。不確実性は排除されました。市民の幸福度は再び100パーセントに固定されます」
それが、当時の彼の仕事だった。 火星のドーム都市に住む人々は、病に倒れることも、飢えることも、失業に怯えることもなかった。すべての結婚、すべての出産、すべての職業選択は、間宮が管理する中央AI「アーカーシャ」によって、最も効率的で幸福なルートが算出されていた。
争いがない。憎しみがない。そして、変化もない。
ある日、間宮はドームの外、赤き砂漠に一人立っていた。 彼の足元には、数世紀前に火星に降り立った開拓者たちが残した、錆びついた旧式のシャベルが半分砂に埋もれていた。
そのシャベルを見た瞬間、間宮の胸に、説明のつかない鋭い「痛み」が走った。
(これを使った人間たちは、砂にまみれ、汗を流し、いつ壊れるか分からない機械に命を預けて、ここを開拓した……。彼らは明日死ぬかもしれない恐怖の中で、しかし確かに『生きて』いたのではないか?)
翻って、今のドームの中はどうだ。 市民たちは、計算された栄養素を摂り、計算された娯楽を消費し、計算された寿命で静かに眠りにつく。彼らの瞳には、かつての開拓者たちが持っていた、未知への渇望も、失敗への恐怖もなかった。
「アーカーシャ。このまま1000年が経過した後の、火星文明の生存確率は?」
『演算中……。1000年後の生存確率は100パーセントです。ただし、新技術の開発率は0パーセント。芸術的、哲学的進歩も0パーセント。文明は完全な定常状態に移行します』
「定常状態……。それは、死んでいるのと何が違う?」
AIは答えなかった。論理の枠外にある問いだったからだ。
間宮は、その日から「禁忌」に手を染め始めた。 彼は密かに、管理システムの中に「不確実性」という名のウイルスを流し込もうとした。人々に、自ら選ぶ苦しみと、それゆえの喜びを取り戻させるために。
しかし、その試みは、同じ管理官であった他の5人——後の「ペンタグラム」たちに露見することとなる。
「M、君は疲れているようだ。不確実性こそが、火星をかつての地球のような紛争の星に変える毒だと忘れたのか?」
若き日の海老名が、冷ややかな笑みを浮かべて間宮に告げた。 5人の管理官たちは、間宮の「反逆」を鎮圧し、彼を処刑する代わりに、一つの残酷な実験を提案した。
「君がそれほどまでに『カオス』を愛するなら、地球へ行くといい。あの未開で、不潔で、不確実性に満ちたゴミ溜めの星で、永遠にその無意味さを観察し続けるがいい」
間宮は、自らの全記憶と全権限を一枚のカードに封印し、火星から放逐された経緯は後の伝説となる。
その物語の後、彼が地球での「傍観者」となった。
現在。2026年、東京。 新宿の古いアパートの一室で、包帯を巻いた間宮は目を覚ました。 窓の外からは、特権階級の支配が終わり、混乱と活気を取り戻した街の騒音が聞こえてくる。
(……あの赤い砂の死よりは、この騒々しい混沌の方が、よほどマシだ)
間宮は、枕元に置かれた古いラジオのスイッチを入れた。 ニュースでは、長友が失脚した後の新しい暫定政府の設立と、世界各地で起きている「未知のネットワーク障害」について報じていた。
間宮は眉をひそめた。 特権階級のシステムは壊したはずだ。だが、地球のネットワークの深層から、かつての火星で聞いた「アーカーシャ」の鼓動に似た、不気味な同期信号が微かに響いていることに彼は気づいていた。
「……まだ、終わっていないのか」
間宮は、傷む体を引きずりながら立ち上がった。 火星の亡霊たちは、まだこの星のどこかに、自分たちの「完璧な墓場」を再構築しようとしている。

