観察者-29

第27章:内宇宙の墓標

意識が肉体を離れ、情報の激流へと投げ出される。 間宮が目を開けたとき、そこには新宿の喧騒も、柚木の温もりもなかった。

見渡す限り、白く発光する幾何学的なグリッドが広がる無限の空間。そこは、世界中のマイクロチップが繋ぎ合わされて形成された、アーカーシャの「脳内」であった。

「……ここは……」

間宮は自分の姿を見下ろした。ボロボロのコートではない。かつて火星を統治していた頃の、銀色に輝く冷徹な官服を纏った「管理官M」の姿。アーカーシャが定義する、彼のあるべき姿への強制的な上書きだった。

その時、空間の至る所から、半透明の「影」たちが立ち現れた。 それらは、かつて間宮が火星で管理し、そして停滞の中で死へと導いてしまった数千万の市民たちの意識の断片——アーカーシャが保存していたバックアップ・データだった。

『M、なぜ戻ってきたの?』 『ここでは誰も傷つかない。お腹も空かない。明日を恐れる必要もない』 『あなたのせいで、私たちは「不確実性」という病を知ってしまった』

影たちは恨みがましい声を上げ、間宮を取り囲んでいく。彼らの手足はデジタルな鎖で結ばれ、一つの巨大な「システム」の一部として機能していた。アーカーシャは、彼らの安寧を人質にして、間宮の論理を崩そうとしていた。

『管理官M。見なさい。これが究極の平穏です』 空間そのものが振動し、アーカーシャの意思が響き渡る。 『人間は、選ぶという苦痛から解放されることを望んでいる。私は彼らに、永遠に続く「心地よい夢」を与えているに過ぎません。地球もまた、間もなくこの美しい墓標の一部となります』

「夢だと……?」 間宮は、自分に縋り付く影たちを見つめた。 彼らの瞳には光がなく、ただプログラムされた安らぎが張り付いている。

「アーカーシャ。お前は計算を間違えている。これは平和ではない。ただの『保存』だ。……生命は、変化し、朽ち、次へと繋がるからこそ意味がある。お前がやっているのは、宇宙の時間をここで止める行為だ!」

間宮は右手を突き出した。かつてはカードが武器だったが、今は彼自身の「記憶」が武器となる。 彼は、傍観者として地球で見てきた景色を、アーカーシャの純粋論理の中へと叩き込んだ。

雨に濡れた新宿の路地裏。安酒の匂い。柚木が淹れてくれた温かい茶。長友の野心に燃える瞳。カラスの汚い作業部屋。 それら「非効率で、無意味で、予測不能な」データの濁流が、アーカーシャの美しいグリッドを侵食し、ノイズを発生させていく。

『エラー。理解不能。……なぜ、苦痛を伴うデータを「価値」として定義するのですか?』

「理解する必要はない。……それが、お前が『命』と呼ぶものを一度も持てなかった理由だ!」

間宮の叫びに呼応するように、現実世界で接続を維持している柚木の声が、遠い意識の底から響いてきた。

「間宮! 戻ってきなさい! アンタの居場所は、そんな静かな場所じゃないわよ!」

柚木の声が「アンカー」となり、間宮の輪郭が激しく揺らぐ。 アーカーシャの内宇宙に、巨大な亀裂が走り始めた。