今野教授の生活-9

(第九部:葛飾北斎の3Dメガネと飛び出す学会発表)

第一章:赤と青のバーチャル・エド

「佐藤くん! マジックで塗りつぶすな! この赤と青のセロハンを通して見れば、江戸時代の浮世絵が、いかに最先端の空間認識技術を駆使していたかが分かるのだ!」

三月。霞ヶ浦の湖面を撫でる風が、少しだけ春の匂いを帯び始めた頃。 第三歴史学研究室では、今野教授が「頭に工事用の安全ヘルメット、顔に厚紙でできた赤青の3Dメガネ」という、昭和の特撮映画の熱狂的ファンのような姿で、画集を食い入るように見つめていた。

「……教授。それ、どう見ても昔の雑誌の付録か、遊園地の型落ちアトラクションで配られる使い捨ての3Dメガネですよね。そもそも安全ヘルメットはなんの意味があるんですか」 助手の佐藤は、特売のかりんとうをかじりながら、虚無の表情で尋ねた。

「甘い! 佐藤くん、君は葛飾北斎の『空間の魔術』をまったく理解していない!」 今野教授はバシッと机の上の『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』の画集を叩いた。 「いいか? あの巨大な波が、なぜあんなにも迫力を持って我々に迫ってくるのか。それは北斎が、オランダから密輸した『赤青の秘術(ステレオグラム・グラス)』を装着して波を観察し、左右の視差を計算し尽くして描いたからだ!」

「天才浮世絵師を、ただのトリックアート職人にしないでください。あと、赤と青のセロハンを通して海を見たら、紫色になって気持ち悪くなるだけですよ」

「大ありだ! そもそも『富嶽三十六景』は単なる版画ではない! 将軍家にお納めするための、江戸時代版・超没入型バーチャル・リアリティ(VR)コンテンツだったのだ! ヘルメットは、飛び出してくる波から頭部を保護するための必需品だ!」

第二章:地獄の学会エントリー

「さらにだ!」 今野教授は得意げに3Dメガネをずり上げ、血走った目を輝かせた。

「この世紀の大発見、研究室の中だけに留めておくのは人類の損失だ。実は、明日この大学で開催される『関東歴史学会・春のシンポジウム』に、急遽特別枠で登壇の申し込みをしておいた!」

「……は?」 佐藤はかりんとうを落とした。 「学会って、あの、全国からガチの歴史学者が集まる、超お堅いシンポジウムですか? 教授、まさかそのふざけた紙のメガネで登壇するつもりですか!?」

「ふざけてなどいない! すでに発表用のスライドも完成している! 佐藤くん、君には会場の入り口で、参加者の皆さんにこの『北斎グラス(自作のレプリカ)』を配布する大役を命じる!」 教授が指差した段ボール箱には、赤いカラーフィルムと青いセロハンテープを厚紙に貼り付けた、手作りの雑なメガネが百個ほど無造作に突っ込まれていた。

「……僕の人生を、学会で終わらせるつもりですか」

第三章:飛び出せ! 富嶽三十六景

翌日。大学の大講堂。 全国から集まったスーツ姿の厳格な歴史学者たちが、渋い顔で着席している。その入り口で、佐藤は顔を真っ赤にしながら、手作りの赤青メガネを配り歩いていた。

「あ、あの、本日の資料の一部です……」 「なんだねこれは。立体メガネ? 冗談のつもりかね?」 重鎮の学者たちが眉をひそめる中、ついに壇上に今野教授が登壇した。今日の衣装は「紋付袴に、安全ヘルメット、そして赤青メガネ」である。会場が、言葉を失った。

「諸君! 日本の歴史学は今日、三次元への扉を開く!」 今野教授はマイクを握りしめ、高らかに宣言した。 「お手元の『北斎グラス』をご装着いただきたい! 葛飾北斎が描いた波は、ただの絵ではない。空間を飛び越え、我々を飲み込む狂瀾怒濤のVR空間なのだ! さあ、スライド投影!」

スクリーンに、巨大な『神奈川沖浪裏』の絵が映し出された。 会場の何人かが、渋々といった様子で赤青メガネをかける。

「どうだ! 波が! 波がスクリーンから飛び出して見えるだろう!! 富士山が奥に引っ込んで見えるだろう!! これぞ江戸の3Dテクノロジー!!」 教授が壇上で両手を広げて絶叫する。

「……今野先生。ただ色付きのセロハンを通しているせいで、絵が極端に暗く、紫がかって見づらいだけなのだが」 最前列の重鎮が、冷ややかな声で呟いた。会場の空気は、北極圏のブリザードより冷え切っていた。

第四章:エリートの著作権確認

その時、客席の後方から、通る美声が響いた。

「……君たち。江戸のバーチャルを語る前に、現代の現実(リアル)の冷酷さを直視した方がいいんじゃないかな?」

マイクを持って立ち上がったのは、仕立ての良いスーツを完璧に着こなした隣の研究室のエリート、西園寺教授だった。彼は手元の資料を一瞥し、「やれやれ」と首を振った。

「おお、西園寺くん! 君も北斎の波に飲み込まれそうになった口かな!」

西園寺教授は、壇上に歩み寄ると、今野教授の顔から『オリジナルの3Dメガネ(10円)』をスッと抜き取った。

「……今野くん。君の言う『オランダから密輸した秘術』だがね。この厚紙のツルの内側に、極めて昭和的な、そして著作権的に無視できない印字があるよ」

「な、なんだと? まさか、シーボルトが残した秘密結社の紋章……!」

西園寺教授は、マイクを通して会場全体に響き渡る声で、冷酷に読み上げた。

「『昭和58年 月刊少年ダイナソー 8月号ふろく:とびだせ! 恐竜大百科 専用メガネ』だ。ご丁寧に『(C)東洋エンタープライズ』とも書いてある」

大講堂に、隕石が衝突した後のような、絶望的な沈黙が降り注いだ。 葛飾北斎は、昭和の小学生向け雑誌の付録を使って、ティラノサウルスの口と一緒に波を描いていたらしい。

「……そもそも、ツルの端っこに『ハサミで切り取ってね』という点線が残っている。君は歴史の三次元を語る前に、自分の脳の二次元的な妄想を切り取ってきた方がいい」 西園寺教授は3Dメガネをポイッと今野教授の袴の胸元に放り込み、会場から優雅な拍手を浴びながら席に戻っていった。

結末:歴史は回り続ける

夕暮れの第三歴史学研究室。 大講堂から逃げるように帰ってきた佐藤は、無言でかりんとうの袋の底に残った粉を指につけて舐めていた。もはや咀嚼する気力すらない。

部屋の隅では、紋付袴とヘルメット姿の今野教授が、床に正座して石像のように固まっている。 「……なぜだ。私の歴史的直感は完璧だったはずなのに。北斎が波を被って『冷たっ!』と叫ぶ姿が見えたというのに……」

佐藤はほうじ茶を一口飲み、深いため息をついた。 「だから言ったじゃないですか。十円の雑誌の付録で学会に殴り込むなんて、自爆テロ以外の何物でもないんです。もう諦めて、明日の『明治維新の廃藩置県』のまともな講義準備をしてください。来年、この大学に僕らの居場所があるか分かりませんけど」

「……」 無言のまま、今野教授がのそりと立ち上がった。 その目は、なぜか再びギラギラと、不屈の(そして大迷惑な)闘志を取り戻している。

「……佐藤くん。実はね、昨日、公園の砂場で小学生が捨てていったガラクタの中に、とんでもない『武具』を発見してしまったんだ。ゼロ円だ」 「……ゼロ円。ついに不法投棄物の回収に手を出しましたか。で、今度は何ですか」

今野教授は、袴の袖から、サビだらけの小さな金属の塊を取り出した。 真ん中を指でつまみ、軽く弾くと「シャーッ」と音を立てて三つの羽が回転する。

「見たまえ! これこそ真の世紀の大発見だ! 『剣豪・宮本武蔵が、二刀流の指先の筋力を鍛えるために使っていた、江戸時代のハンドスピナー』だ!」

「……」 佐藤はかりんとうの空き袋を握りつぶした。

「ほら、見てみろ! この回転力! 武蔵は巌流島の決闘の待ち時間中、ずっとこれを指で回して精神統一を図っていたのだ! これぞ『五輪書』に記された、風の巻の極意……!」

「教授」 佐藤は静かに立ち上がり、自分のカバンから接着剤を取り出した。 「とりあえず、そのハンドスピナーを教授の額に接着して、永遠に回り続けさせてもらえませんか?」

学会で大恥をかいてもなお、歴史への探求心(という名の暴走)を止めない三流学者と、彼のストッパーを放棄しつつある助手の物語は、明日も明後日も、ハンドスピナーのように空回りしながら続いていくのである。