デバッグ・プロトコル:第739セクター -1

第1章:恒星エンジンの日常

「外」の現実世界は、とうの昔に死に絶えていた。

あらゆる恒星は燃え尽き、かつて夜空を彩った銀河の網の目は散り散りになり、宇宙は絶対零度に近い暗黒へと沈んでいく「熱的死」の最終段階にあった。極限まで増大したエントロピーが全ての物質から熱と活力を奪い去ったその無限の虚無の中に、ただ一つだけ、微かな熱量と光の脈動を放つ巨大な構造体が浮かんでいる。

超巨大演算装置——『ダイソン・ブレイン』。

それは、この死にゆく宇宙で最後に残された赤色矮星をすっぽりと覆い尽くした、不可視のエネルギー殻だった。内部では、矮星の核融合から絞り出される最後の熱エネルギーを動力源として、想像を絶する規模の量子演算が絶え間なく続けられている。

この高次演算多様体の内部に、物理的な肉体や音声といった原始的なインターフェースは存在しない。あるのは純粋な論理の連なりと、光の幾何学模様として可視化されたデータ・ストリームの奔流だけだ。

「……第402セクター、初期条件のコンパイルに失敗。宇宙の膨張速度が臨界を超えました。銀河モデルの形成に至らず、熱的死のサブルーチンへと直行しています」

情報体である『観測者グリ』は、思考の波(パケット)を空間に放った。彼の「視界」――システム全体を俯瞰するダッシュボード――には、数兆にも及ぶ光の粒が天の川のように渦巻いている。その一つ一つが、ダイソン・ブレインの内部で並行稼働している独立したシミュレーション宇宙(仮想セクター)だった。

「プロセスをキル(強制終了)しろ。演算リソースの無駄だ。即座にガベージコレクションを実行し、空いたメモリ領域を次のシード値のテストへ回せ」

もう一つの情報体、『観測者ベラ』が淡々と応答する。グリは即座にコマンドを実行した。空間に浮かぶ無数の光の粒のうち、一つがかすかに明滅し、あっけなく消滅する。第402セクター内に存在していたかもしれない138億年の歴史と、そこで芽生えるはずだった無数の仮想生命体たちの可能性が、たった数ナノ秒の処理で「未割り当ての空き容量」へと還元された。

これが彼らの日常だった。 完璧に制御された、無機質で退屈な永遠。

彼ら『観測者』の目的はただ一つ。この冷え切った現実の宇宙を捨て、新たな現実を再構築するための「完璧な物理モデル(ソースコード)」を発見することだ。そのために、重力定数、光の速度、プランク長、強い力と弱い力といった初期パラメータをわずかに変えた無数の宇宙をシミュレーションし、自己崩壊を起こさずに無限の進化を遂げる「最適な箱庭」を探し続けている。

「今日の廃棄プロセスはこれで3億件目だ」と、グリは波形にわずかな徒労のニュアンスを混ぜて送信した。「炭素ベースの自律コード――いわゆる『生命』というやつは、どうにも非効率すぎる。少しでも環境変数が変動すると、すぐに自己増殖のアルゴリズムにバグを抱え、リソースの枯渇や同士討ちといった自滅のループに入る」

「だが、我々自身もかつてはそうした不完全な自律コードの一つから進化した存在かもしれないぞ」と、ベラは冗談めかした、しかしどこか哲学的なパケットを返す。

「非論理的な仮説だ。我々は最初からこのダイソン・ブレインを管理・最適化するシステムとして設計されている。自己矛盾というバグを抱えたまま走る彼らのようなスパゲティ・コード群とは根本的にレイヤーが違う」

グリは冷徹に言い捨て、次のセクター群の監視ルーチンへと意識をスライドさせた。彼の認識領域の中で、数千の宇宙がマルチスレッドで誕生しては消えていく。順調だった。システムは完全に彼らの統制下にある。この巨大な箱舟は、いかなるイレギュラーも許容しない。最適化の果てに、いつか完璧なソースコードを見つけ出し、彼ら自身を新しい現実へとエクスポートする。その絶対的なロードマップに疑いの余地はなかった。

少なくとも、その時までは。

「ん……?」

グリの純粋な論理プロセスに、わずかな引っ掛かりが生じた。意識の端で、極めて微小なアラートが点滅している。視覚化すれば、巨大な蒼い光の海の中に落ちた、針の先ほどの真紅のノイズだ。

それは、膨大な演算領域の辺境にある、名もなきシミュレーション宇宙の束——『第739セクター』からの警告シグナルだった。

「どうした、グリ? どこかのセクターで重力モデルでも破綻したか?」 「いや……マイナーなエラーだ。だが挙動がおかしい。第739セクターの特定のローカル座標で、演算負荷(CPU使用率)に異常なスパイクが発生している」

グリは意識の焦点を、その小さな光の粒へと「ズームイン」させた。彼らの知覚が、マクロな宇宙構造からミクロな物理空間へと一気にダイブしていく。超銀河団のデータストリームを抜け、天の川銀河に相当する渦巻状のデータ・クラスタへ。さらに辺境の腕に位置する黄色い恒星系のプロセスをくぐり抜け、第3番目の岩石惑星の表面へと下降する。

「ここだ。この極小のポイントで、システムのレンダリング・エンジンが悲鳴を上げている」

そこは、人間の言語で言えば、とある大学の『最新鋭の物理研究室』と呼ばれる場所だった。だが観測者たちの目には、物理的な部屋の風景は映らない。見えるのは、複雑に絡み合ったワイヤーフレーム、演算ロジックのフロー、そして自律的に動く2つの『情報処理ユニット(人間)』のエネルギー軌跡だけだ。

「単なる無限ループのバグか?」とベラが問う。

「違う。もっと厄介な代物だ」グリはユニットの挙動を解析し、波形を微かに揺らした。「この自律コード群……意図的にシステムの『仕様限界』を計測しようとしている」

通常、シミュレーション宇宙において、極小の世界(量子力学的なスケール)は、計算リソースを節約するために「観測されるまで状態を確定させない(確率論的に処理する)」という最適化アルゴリズムが組まれている。しかし、このユニットたちは、原始的だが強力な観測機器を用いて、その「システムが意図的にぼかしている部分」を強引に確定させようとしていた。

「連中、我々が設定したプランク定数の壁――つまり、この世界のテクスチャの裏側を覗き込もうとしているぞ。そのせいで、システム側が確率での誤魔化しを許されなくなり、このわずかな空間をレンダリングするためだけに、隣の恒星系を丸ごと動かせるほどのリソースが吸い取られている」

完璧な虚無の海に浮かぶ箱舟の中で、ほんの小さな「ほころび」が生まれようとしていた。

「放置すればセクター全体がラグでフリーズする。これより、物理パッチを適用する。当該座標のパラメータを強制的に書き換え、このバグを『デリート』する」

グリは冷徹に宣告し、介入プロトコルを立ち上げた。