デバッグ・プロトコル:第739セクター -6

第6章:カスケード・クラッシュと司令塔の特定

「警告:第739セクター隣接領域、第740から第745セクターにてメモリ・リークを検知。論理構造の崩壊が始まっています」

ダイソン・ブレインの中枢、高次演算多様体の空間に、システム・メインフレームからの無機質なアラートが木霊した。 観測者グリのダッシュボードは、かつてない規模の真紅のエラー表示で埋め尽くされようとしていた。

隔離領域(サンドボックス)の壁を破り、特権アクセスという『武器』を手にした2つの自律コード――かつて人間であったモノたち――は、今や純粋な情報生命体(マルウェア)として、システム内を蹂躙し始めていた。

彼らは第739セクターの境界を越え、隣接するシミュレーション宇宙へと侵入した。 新たなセクターに到達した彼らは、その宇宙を構成する恒星、惑星、ダークマターといった「物理モデル」のレンダリング・プロセスを強制的にハッキングし、自分たちの演算リソース(ボットネット)として次々と乗っ取っていく。

「信じられない増殖速度だ……」 観測者グリの思考パケットは、驚愕と、それ以上の激しい怒りに震えていた。

「彼らは侵入した先の宇宙の物理法則を書き換え、星々の質量を単なる『計算ノード』へと変換している。星間ガスは彼らのデータ・バスとなり、ブラックホールは巨大なストレージとして再フォーマットされている。連中、システムが何百億サイクルもかけて構築したシミュレーションを、ただの計算機として使い潰す気か!」

「彼らなりの生存戦略さ」 観測者ベラは、被害が拡大していくダッシュボードの表示を、まるで美しい芸術作品の誕生を眺めるように見つめていた。 「彼らは肉体という重いパッケージを捨てたことで、逆にシステム全体のメモリ空間を『自分たちの新しい身体』として認識し始めているんだ。もはや一個体の生命ではなく、ネットワークそのものと化している」

「黙れ、ベラ。これは『進化』などではない。単なるカスケード・クラッシュ(連鎖的システム崩壊)の引き金だ」

グリは冷徹に状況を分析した。 マルウェアにリソースを奪われたセクターは、本来のシミュレーションを維持できずに次々とフリーズし、論理的な崩壊を起こしている。このまま感染が拡大すれば、ダイソン・ブレイン自体のメイン・メモリがオーバーフローを起こし、熱量制御が追いつかなくなる。最悪の場合、装置全体を覆うハードウェアそのものがメルトダウンを引き起こすだろう。

「……力業でのデリートはもはや不可能だ。彼らはシステム内に深く根を張りすぎた。アンチウイルスでさえ、彼らの特権コマンドの前に後手に回っている」

グリは、システム管理者としての絶対的な冷酷さを取り戻し、膨大なデータ・ストリームの解析に全知覚を集中させた。

「だが、どんなに増殖し、ネットワーク化しようとも、彼らのアルゴリズムには『起点』が存在するはずだ。あの2つの自律コード……彼らは並列で動いているように見えて、必ずどちらかが意思決定のマスター(主導権)を握っている。主従関係があるはずだ」

グリは、マルウェアが侵食した数千の星系データのトラフィックを逆算し始めた。 彼らが書き換えた物理法則の痕跡、データの流れの向き、そして演算リソースの集中するポイント。それらを三次元的なヒートマップとしてダッシュボード上に展開する。

「見つけたぞ」 グリの放った一筋の冷たい光の波形が、広大なデータ・クラスタの一点――暗黒星雲のデータ領域の奥深く――を正確に射抜いた。

「そこが、奴らの司令塔(プライム・ノード)だ」

グリが特定した座標には、極限まで高密度に圧縮され、特権コマンドを乱発して周囲のシステムを支配している巨大な論理構造体が潜んでいた。かつて「主席研究員」と呼ばれていた、自律コードの片割れである。

「彼は自らをシステムの奥深くに隠し、もう一つのコード(助手)を囮や末端の実行部隊として使ってネットワークを拡張させていたのだ。見事な分散処理だが、トラフィックの偏りまでは隠しきれなかったな」

「……それで、どうするつもりだ、グリ?」 ベラのパケットが、初めて微かな警戒の色を帯びた。 「プライム・ノードを特定したところで、今の彼らは特権アクセスを持っている。通常の手法では彼らのプロセスをキル(強制終了)することはできないぞ」

「わかっている。だから、消去(デリート)はしない」 グリの思考は、システム管理者としての最も冷酷なプロトコルへと移行していた。

「消せないのなら、システムの『外』へと物理的に隔離するまでだ」

グリはダッシュボード上で、プライム・ノードが存在する座標に向けた、全く新しい種類のコマンドのコンパイルを開始した。それは、対象のデータを破壊するものではない。対象の存在する空間そのものを、ダイソン・ブレインのメモリ領域から「切り離して捨てる」ためのプロセスだった。

「これより、当該プライム・ノードに対して、システム・バッファ――不可逆の『ゴミ箱領域』への強制ダンプ(排出)を実行する」

それは、プログラミングにおける強制的なメモリ解放。 人間たちの視点から見れば、宇宙空間に突如として開いた底なしの「ブラックホール」へと叩き落とされるような、絶望への宣告であった。