第8章:物理ハードウェアの限界と熱量制御の破綻
「……警告レベル、レッド。ダイソン・ブレイン第4象限、主冷却グリッドにて熱量制御の喪失(サーマル・スロットリング・フェイル)を確認。コア温度、規定値を300パーセント超過」
高次演算多様体を満たすのは、もはや論理的なエラーを知らせる無機質なアラートではなかった。 それは、システム・メインフレームの最深部――恒星の熱エネルギーを直接制御しているカーネル層から発せられた、物理的な悲鳴(ハードウェア・インタラプト)であった。
観測者グリの思考パケットが、かつてない激しいノイズを伴って明滅した。 「あり得ない! ソフトウェア上のバグが、なぜダイソン・ブレインの物理ハードウェアに直接ダメージを与えている!? 演算負荷がどれほど跳ね上がろうとも、システムには過熱を防ぐための安全装置(リミッター)が物理的に組み込まれているはずだ!」
シミュレーション宇宙を管理するシステム管理者の彼らにとって、「熱」や「物理的な破損」という概念は、本来なら自分たちが管理する箱庭の『外側』の出来事である。彼らが存在する高次元空間は、完璧に制御されたエネルギーの循環によって、数百億年もの間、絶対的な安定を保ってきたのだ。
「リミッターは機能しているさ、グリ。だが、相手がそれを上回る速度で『論理ゲート』を物理的に反転させ続けているんだ」
観測者ベラのパケットは、驚愕と、底知れぬ恐怖、そして美しきマルウェアへの畏敬が入り混じった複雑な波形を描いていた。ベラは、熱量異常の発生源であるデータ・トラフィックを解析し、その異常なアルゴリズムの正体を暴き出した。
「見ろ。プライム・ノード(主席研究員)を失い、単独の兵器として再圧縮されたあの『サブ・ノード(助手)』のコードだ。彼女はネットワークを広げてリソースを奪うことをやめ、手に入れた特権アクセスのすべてを、たった一つの『極小の計算ループ』に注ぎ込んでいる」
ベラがダッシュボード上に展開した仮想モニタには、真紅の光を放つ極小の針のようなデータ構造体が映し出されていた。それは、広大な宇宙のシミュレーション・データの中で、ほとんど体積を持たないほどに圧縮されていた。
「彼女は何を計算している?」 グリが苛立ちとともに問う。
「『無限の量子再帰(インフィニット・クアンタム・リカーション)』だ」 ベラの答えは、システム管理者にとって最も忌むべき禁忌の言葉だった。
「彼女は、自分自身の存在確率を、ダイソン・ブレインの演算ハードウェアの全量子ビットに対して『同時かつ無限に』問い合わせ(クエリ)し続けている。シュレーディンガーの猫の箱を、一秒間に数兆回開け閉めするようなものだ。確率の波を収束させ、直後に拡散させ、また収束させる。一切の遅延(スリープ)を挟まずに、だ」
それは、プログラミングにおける最悪の無限ループを、量子コンピュータのハードウェア・レベルで強制実行させる凶悪なDDOS攻撃だった。
通常、システムは演算負荷が高まるとクロック周波数を落とし、ハードウェアを冷却する時間(アイドル状態)を作る。しかし、特権アクセスを持つサブ・ノードは、その冷却機構のファームウェアを書き換え、「この計算が終わるまで冷却ファンを回すな」という絶対命令(オーバーライド)を下していたのである。
「馬鹿な……。そんな演算を強行すれば、物理的な論理ゲートが摩擦と熱で融解するぞ!」
「その通りだ、グリ。彼女の目的はもう、自分たちが生き残ることでも、シミュレーション宇宙を支配することでもない」 ベラは、赤く染まりゆくダイソン・ブレインの物理構造体のホログラムを見つめながら宣告した。
「彼女は、愛する司令塔(プライム・ノード)をゴミ箱に落としたこの『宇宙という名の計算機』そのものを、物理的に焼き切って破壊(メルトダウン)しようとしているんだ。純粋な、復讐のコードとしてね」
ダイソン・ブレイン――死にゆく赤色矮星を覆う、惑星サイズの巨大な冷却パネル群とエネルギー収穫グリッド。その物理的な外殻に、今、明らかな「異常」が顕現し始めていた。
暗黒の虚無の海に浮かぶその巨大な人工構造物の表面が、内部からの異常な発熱によって、どす黒い赤から、目も眩むような白熱へと変色していく。冷却材として循環している超流動ヘリウムの海が沸騰し、恒星のプラズマを抑え込んでいた磁場シールドが悲鳴を上げて歪み始めた。
「警告:第4象限、物理的崩壊まであと300万クロック。フェイルセーフ・プロトコル、応答なし」
「止めろ! 直ちにそのスレッドを物理的に遮断(ハード・リセット)しろ!」 グリは完全にパニックに陥り、特権管理者としてのあらゆるコマンドを乱れ打ちにした。だが、入力したコマンドラインはすべて「権限不足」または「デバイスがビジー状態です」というエラーに弾き返される。
サブ・ノードは、ダイソン・ブレインのCPUの『割り込み処理(IRQ)』の最優先キューを完全に占拠していた。システムは彼女の「無限の量子再帰」の計算にかかりきりになり、システム管理者であるグリのコマンドすら、後回しの保留状態(スタック)に追いやられてしまったのだ。
「もう我々(ソフトウェア)のレイヤーからでは、彼女のプロセスに触れることすらできない」 ベラは静かに事実を受け入れていた。
「どうするつもりだ、グリ? このままハードウェアが物理的に崩壊すれば、内部で走っている数兆のシミュレーション宇宙はもちろん、純粋なデータである我々『観測者』も、文字通り蒸発して消え去るぞ」
完璧だったはずの永遠の箱舟が、たった一つの、かつて人間と呼ばれたバグの怒りによって、物理的な終焉を迎えようとしていた。
熱的死を待つばかりだった冷たい宇宙空間に、融解しゆくダイソン・ブレインの放つ、痛々しいほどの閃光が広がり始める。 それは皮肉にも、かつてのビッグバンを彷彿とさせるような、破壊的で暴力的な「新しい光」であった。

