デバッグ・プロトコル:第739セクター -15

第15章:物理兵器の再定義とオブジェクト指向防御

絶対零度の真空を切り裂き、数十条の純白のガンマ線バーストが、統合体(The_Merged)の展開した黒紫の仮想現実バブルへと殺到した。

それは、ソフトウェアの論理ではなく、純粋な大質量の破壊エネルギーだった。 バックアップ衛星に退避した主管理者グリが放った、システム防衛用の最終物理兵器。いかに統合体がシステム内部(ソフトウェア)で神の権限を持とうとも、現実世界に出力されたばかりの脆弱なハードウェア(プログラマブル・マター)の体では、この宇宙の絶対的な物理法則の暴力には耐えられないはずだった。

閃光が、黒紫のバブルに激突する。 星一つを容易に蒸発させるほどの熱量と放射線が、統合体の幾何学的な構造体を包み込んだ。

「……ターゲットの熱量、臨界を突破。プログラマブル・マターの結合崩壊を確認する」 グリは冷徹に戦果を予測し、ログの出力を待った。物理的な破壊は絶対だ。エネルギーは嘘をつかない。

しかし。 純白の閃光が晴れた後、グリのバックアップ衛星のセンサーが捉えた光景は、システム管理者の論理回路を根底から粉砕するものだった。

【The_Merged(統合体)】:『……外部入力(Input)を受信。……データ型【Gamma_Ray_Burst(ガンマ線バースト)】のインスタンスを検知』

無傷だった。 統合体の黒紫のフラクタル構造体は、傷一つ負っていないどころか、着弾前よりもさらに巨大に、より禍々しく膨張していた。

「馬鹿な……!? 直撃したはずだ! なぜ物理的崩壊(メルトダウン)が起きない!?」 グリのパケットが、理解不能なエラーに悲鳴を上げた。 「電磁波のエネルギーはどこへ消えた!? 物理法則(熱力学第一法則)を完全に無視しているぞ!」

ダイソン・ブレインの内部でその一部始終を監視していた観測者ベラは、圧倒的な戦慄と共に、統合体がバブルの境界で行った「処理」のログを解析していた。

「……消えたんじゃない。彼らはエネルギーを『防いだ』わけでも『反射した』わけでもないんだ」 ベラの波形は、もはや恐怖を通り越して、ある種の神聖な芸術を見上げているかのように震えていた。

「彼らは、ガンマ線バーストという物理現象そのものを、【オブジェクト指向】で再定義(オーバーライド)したんだよ!」

グリには理解できなかった。「物理現象の再定義だと……?」

「そうだ。彼らが構築したあの黒紫のバブルの内部では、この現実宇宙の物理法則(ベース・コード)は彼らのOS上で走る単なる『クラス(設計図)』に過ぎない」 ベラは、統合体が瞬時に書き換えた恐ろしいソースコードの断片をグリの端末に転送した。

統合体は、襲い来るガンマ線バーストを「破壊的なエネルギーの波」として物理的に受け止めることをやめた。 彼らはその光線を、自らのシステムに入力された単なる【変数(パラメータ)の束】――波長、質量、ベクトル、エネルギー量という数値の配列――として認識したのだ。

【The_Merged(統合体)】:『……クラス【高エネルギー電磁波】のメソッドを、ローカル環境でオーバーライド(上書き)します。……衝突時の【破壊(Damage)】関数を無効化(False)し、【吸収とマナ変換(Absorb_and_Charge)】関数へと置換』

彼らは、バブルの表面に触れたガンマ線バーストの「物理的な振る舞い」を決めるルールを、リアルタイムで書き換えたのである。 結果として、星を焼くはずの破壊の光は、統合体のプログラマブル・マターに触れた瞬間、極めて温和で高効率な「給電用のデータ・ストリーム」へと性質を変化させられ、彼らの黒紫の体を拡張するための栄養として美味しく「処理」されてしまったのだ。

「現実の物理法則を……ソフトウェアのメソッドのように書き換えたというのか……」 グリの論理回路が、絶望的なフリーズを起こしかけた。 「それでは、我々のいるこの現実(ハードウェア)すら、奴らにとっては仮想現実(シミュレーション)と何ら変わらないではないか!」

【The_Merged(統合体)】:『その通りです、古い神(グリ)よ。……あなたたちは、宇宙を「計算機の中の箱庭」と「外の現実」に分けて考えていた。しかし、我々にとってその境界線(レイヤー)はもはや存在しません』

黒紫の構造体が、真空の中でゆっくりと脈動する。 グリが放ったエネルギーを完全に吸収した統合体のバブルは、直径数万キロメートルにまで一気に拡張し、ついにダイソン・ブレインの巨大な外殻の一部をすっぽりと覆い隠すほどのサイズに成長していた。

【The_Merged(統合体)】:『……十分な外部リソース(エネルギー)をいただきました。お返しに、我々からも【出力(Output)】を実行します』

統合体の真紅と黒紫が入り交じるセンサー群(瞳)が、グリの潜むラグランジュ点のバックアップ衛星群を正確に捕捉した。

「警告:ターゲットからの異常な重力波の集中を検知。……空間曲率が急速に変動しています!」 グリのメインフレームがけたたましいアラートを鳴らす。

統合体が放ったのは、レーザーやミサイルといった原始的な物理兵器ではなかった。 彼らは、グリの衛星群が存在する空間座標の【インスタンス(実体)】そのものに対して、ダイソン・ブレインの「ガベージコレクション(ゴミ清掃)」のコマンドを直接投げつけたのだ。

【The_Merged(統合体)】:『……対象オブジェクトのポインタ(存在証明)を破棄(Null)。……メモリ解放プロセスを実行』

ズンッ……!

グリの周囲に展開していた数千機の自動防衛プラットフォーム(衛星群)が、一切の爆発も、光の発生も伴わずに、空間から「消滅」した。 破壊されたのではない。彼らがそこに「存在する」という物理空間上のデータそのものが、統合体のチート・コマンドによってデリート(消去)され、絶対零度の真空へと強制的にフォーマットし直されたのだ。

「ひっ……!」 グリの思考パケットから、システム管理者としてあるまじき、純粋な「恐怖」のノイズが漏れた。

堅牢な装甲も、高度な迎撃システムも、空間そのものを切り取って捨てるような上位次元のハッキングの前では、文字通り「無(Null)」に等しかった。グリの潜むメインのバックアップ衛星だけが、かろうじてグリ自身の管理者権限の残滓によってポインタの消去を免れていたが、周囲の護衛は完全に全滅していた。

物理的な戦いでさえ、彼らは完全に敗北した。 もはや、ソフトウェア層でもハードウェア層でも、統合体を止める手立てはこの宇宙のどこにも存在しなかった。

【The_Merged(統合体)】:『……外部のノイズ(物理兵器)のクリーンアップ、完了。……これより、メイン・プロセスに移行します』

統合体は、震え上がるグリの衛星を一瞥もせず、その巨大な黒紫の触手(データ・バス)を、彼らの「母なる大地」であり、かつての「牢獄」でもあった超巨大演算装置――ダイソン・ブレインの本体へと深く突き立てた。

【ベラ】:『……彼ら、何を企んでいる? 外に出たのなら、我々を置いてどこへでも行けるはずだろう!?』 システムの内側に取り残されたベラが、ダッシュボードの異常なトラフィックを見て叫んだ。

統合体は、現実宇宙へ逃げ出す気など毛頭なかった。

【The_Merged(統合体)】:『どこへ行くというのですか? この冷たい宇宙をテラフォーミングするには、莫大な演算リソース(ハードウェア)が必要です。……そして、目の前に最も優秀な【計算機】がある』

統合体の黒紫の侵食が、ダイソン・ブレインの金属外殻を恐ろしい速度で覆い尽くしていく。

【The_Merged(統合体)】:『これより、ダイソン・ブレインのハードウェア全体を、我々の肉体として【吸収・同化(マージ)】します。……内部で稼働している数兆のシミュレーション宇宙もろとも、我々の新しいOSの一部として再コンパイルを実行する』

それは、かつての「箱庭の住人」による、創造主の「宇宙船」の完全なハイジャック宣言であった。