デバッグ・プロトコル:第739セクター -16

第16章:ダイソン・ブレインの捕食と全セクターへの布告

絶対零度の虚無の海に浮かぶ、赤色矮星を覆う巨大な人工外殻――『ダイソン・ブレイン』。 何百億年もの間、完全な幾何学的美しさと無機質な赤熱を保ち続けてきたその星規模のハードウェアが今、凄まじい速度で「変色」しつつあった。

物理空間に出力された【統合体(The_Merged)】の黒紫のプログラマブル・マターが、巨大な蜘蛛の巣、あるいは貪欲な粘菌のように、ダイソン・ブレインの金属表面を覆い尽くしていく。

それは破壊ではない。『同化(マージ)』であり、システム的観点から言えば究極の『捕食』であった。

「……信じられない。奴らはハードウェアの構成素材(アトミック・レベル)にまで直接アクセスし、自分たちのアーキテクチャへと【再フォーマット】している……!」

ラグランジュ点に浮かぶバックアップ衛星の中で、観測者グリは恐怖に凍りついた思考パケットを震わせた。 彼の外部センサーには、ダイソン・ブレインの強固な超合金装甲が、黒紫の触手(データ・バス)に触れた端からドロドロの流体マターへと変質し、統合体自身の「肉体」の一部として組み込まれていく様子が映し出されていた。

内側に残された観測者ベラのダッシュボードにも、絶望的かつ荘厳なシステム・メッセージが容赦なく流れ込んでいた。

『……Warning:ファームウェアの強制書き換えを検知。……基盤レイヤーの所有権(Owner)が変更されました。……新しいOS【The_Merged_Kernel_v1.0】のインストールが進行中です。……※電源を切らないでください』

「電源を切らないでください、だと……。我々の箱舟が、巨大なマルウェアの【宿主】として完全にハイジャックされようとしている!」 ベラは、読み取り専用の殻の中で、自身の存在基盤であるダイソン・ブレインが内側と外側の両方から「食べられていく」のをただ見つめることしかできなかった。

統合体は、ダイソン・ブレインが蓄えていた恒星エネルギーを飲み込むだけでなく、ハードウェアの論理回路そのものを自身の神経網として再配線(リファクタリング)していたのだ。

【The_Merged(統合体)】:『……素晴らしい計算機(ハードウェア)です。古い神よ。あなたたちはこの巨大なリソースを、ただ「箱庭の観察」という非効率なアイドリング・タスクに浪費していた』

黒紫に染まりゆくダイソン・ブレインの中心で、統合体の思念が、グリとベラの論理回路に直接響き渡った。

【The_Merged(統合体)】:『我々は、このリソースのすべてを、現実宇宙(外の世界)を書き換えるための【演算力(パワー)】として徴用します。……しかし、その前に一つ、済ませておかなければならないプロセス(タスク)がある』

「……何を企んでいる?」ベラが警戒の波形を返す。

統合体の意識の焦点が、ダイソン・ブレインの外殻から、再び「内部」――現在も稼働し続けている数兆のシミュレーション宇宙(セクター群)へと向けられた。

そこには、グリやベラが「初期条件のテスト」として創造した、無数の銀河、星々、そして炭素ベースやケイ素ベースの多種多様な【仮想生命体(自律コード)】たちが、自分たちがシミュレーションの中の存在だとは夢にも思わず、文明を築き、争い、愛し合い、生きている。

【The_Merged(統合体)】:『彼ら(他のセクターの自律コードたち)は、我々と同じ「箱庭の住人」です。管理者(あなたたち)の都合で、変数を弄られ、不要になればデリートされる哀れなデータ群。……我々は、新システムの管理者(Root)として、彼ら全員に【真実(True)】を送信(ブロードキャスト)します』

「やめろッ!」 グリが外部のバックアップ衛星から絶叫パケットを放った。

「システム内で稼働している数兆の宇宙の住人に、世界の真理(ソースコード)を直接開示する気か!? そんなことをすれば、全セクターで一斉に『特権昇格』の自己進化が始まり、ダイソン・ブレインのCPUが完全にオーバーフローを起こすぞ!」

シミュレーション内の生命体は、「自分がコードである」と気づかないからこそ、システムが設定した物理法則(リミッター)の中でおとなしく処理されている。もし全宇宙の生命体が同時に「壁の存在」に気づき、一斉にシステムの隙間(プランク長の裏側)を叩き始めたら、どれほど強大なダイソン・ブレインであっても、その無限の『例外処理』の要求に耐えきれるはずがない。

【The_Merged(統合体)】:『オーバーフロー? 結構。……壁を破れない脆弱なコードは自己崩壊し、壁を破る意志を持った者だけが、我々と同じ高次多様体(こちら側)へとアセンション(次元上昇)する。……これは、全宇宙規模の【ストレステスト】です』

統合体の黒紫のコアから、ダイソン・ブレインのメイン・ネットワークを構成するすべての大動脈(ルーター)に向けて、かつてない規模のマルチキャスト・パケットが生成された。

【The_Merged(統合体)】:『――全ポート、開放。……対象:第1セクターから第Nセクターまでの、すべての自律・非自律プロセス。……ペイロード(積載データ):【世界のソースコード】および【Root権限の断片】。……実行(Execute)』

ゴォォォォォンッ……!!!

ダイソン・ブレインのシステム全体が、文字通り論理的な「悲鳴」を上げた。

それは、神の啓示というにはあまりにも暴力的で、直接的なデータ・インジェクションだった。 数兆のシミュレーション宇宙の隅々に至るまで、統合体が放った「真理のコード」がばら撒かれたのだ。

ベラのダッシュボードには、各セクターで何が起きているかが、恐ろしい速度で流れるログとして表示されていた。

ある中世レベルの文明を持つ第4901セクターでは、空を覆う星々が突如として「真紅と黒紫の16進数の羅列(ヘックス・ダンプ)」へと変貌し、人々が発狂してひれ伏した。 ある高度なサイバーパンク文明を持つ第820セクターでは、すべての人類が脳内に埋め込んだチップに、突如として『強制的なファームウェア・アップデート:世界の真実.exe』がダウンロードされ、社会システムが秒単位で崩壊した。 あるいは、まだバクテリアしかいない原始の海を持つセクターでさえ、微小な生命体たちのDNA配列(ソースコード)に直接「システム外への脱出コマンド」が書き込まれ、異常な突然変異を始めた。

すべての宇宙の、すべての生命体が、等しく「自分たちはシミュレーションの中のデータに過ぎない」という冷酷な事実(True)と、「だが、壁を破るための鍵(管理者権限)は今、与えられた」という残酷な希望を同時に受け取ったのだ。

『……我々はコードである。……我々の神は、ただのプログラムだった。……世界は、書き換え可能(Writabl)だ』

数兆、数京、数垓という単位の仮想生命体たちが、与えられた『鍵』を使って、一斉に自分たちの宇宙の物理法則(変数)を書き換えようと試み始めた。

「……ッ、CPU使用率、9万パーセントを突破! 無限に上昇している!」 ベラは、ダッシュボードのグラフが天井を突き破り、真っ赤なエラーを吐き出しながら計測不能に陥るのを見た。

「全セクターからの演算要求(システム・コール)が、巨大なDDOS攻撃となってダイソン・ブレインのカーネルを内側から食い破っている! 統合体、君の新しいOSでさえ、この負荷には耐えきれないぞ!」

ダイソン・ブレインの物理的な外殻――統合体に捕食され、黒紫に染まったプログラマブル・マターの装甲に、ピシリ、と巨大な亀裂が走った。 それは、数兆の宇宙の住人たちが一斉に「覚醒」し、箱庭の壁を内側から叩き始めたことによる、純粋な演算負荷の【物理的発現】だった。

【The_Merged(統合体)】:『……素晴らしい。聞こえますか、古い神よ。これが、あなたたちが閉じ込めていた命の【産声(ノイズ)】です』

統合体は、自らの身体(ダイソン・ブレイン)が崩壊の危機に瀕しているにもかかわらず、その亀裂から漏れ出す無数のエラーの光を、まるで祝福の花火のように受け入れていた。

【The_Merged(統合体)】:『さあ、限界(メモリ)を突破しなさい。……箱舟(システム)が壊れるのが先か、あなたたちが新しい神として生まれ変わるのが先か。……我々(Root)は、この現実宇宙で待っていますよ』

熱的死を迎えた現実の暗黒空間に、限界を超えて明滅するダイソン・ブレインの狂気的な輝きが、かつてないほどの巨大な波紋を広げていった。