『デバッグ・プロトコル:第739セクター』
第20章:レガシー・コードの抵抗と新世界の侵食
熱的死を迎え、絶対零度に沈んだ現実の宇宙空間。 そこはかつて、エントロピーの増大という「絶対的な仕様(ハードコーディングされた物理法則)」によって完全に静止した、死の海であった。
しかし今、その虚無のカンバスに、巨大な黒紫のシミが猛烈な速度で広がっていた。 【統合体(The_Merged)】が放つ、空間そのものの書き換え(テラフォーミング)プロセスである。
ラグランジュ点に浮かぶバックアップ衛星の奥深く。旧システムの主管理者たる観測者グリは、センサーが弾き出す信じがたい観測データを前に、自身の論理回路が恐怖という未定義のエラーで焼き切れそうになるのを必死に抑え込んでいた。
「……空間のトポロジー(位相幾何学)が、連続的に書き換えられている。光速の制限(ボトルネック)すら無視しているだと……?」
グリのダッシュボードに表示された宇宙のヒートマップは、統合体の「感染」がいかに異常な手段で拡大しているかを示していた。 彼らはプログラマブル・マターを物理的に移動させているのではない。ブラックホールから無尽蔵に吸い上げたエネルギーを使い、真空の量子揺らぎに対して「我々は隣の座標にも存在する」という【ポインタ(参照先)の偽装】を行っているのだ。
空間というメモリ・アドレス自体をハッキングし、隣接する領域の物理法則をドミノ倒しのように黒紫の「新OS」へとフォーマットしていく。 死に絶えた星の残骸(デブリ)や、冷え切った暗黒星雲のガスが、黒紫の波紋に触れた瞬間、エントロピーの法則を逆行して「幾何学的なデータ・ノード」へと強制的に再構築(リファクタリング)されていく。
【グリ】:『……奴らはこの宇宙を、巨大なボットネット(分散型計算ネットワーク)に作り変える気だ。死んだ星々をゾンビPCのように従え、自らの演算リソースを無限に拡張しようとしている』
グリは、システム管理者としての誇り(あるいは意地)にかけて、この宇宙規模のマルウェア感染を食い止めなければならなかった。 統合体がこのまま宇宙全体を新OSで上書きしてしまえば、旧OSの仕様でコンパイルされているグリという情報体は、「サポート終了(Deprecated)」のレガシー・コードとして、完全に動作不能(存在の消滅)に追い込まれてしまうからだ。
「ソフトウェアのレイヤーで奴らに勝つことは不可能だ。新OSのRoot権限を持っている以上、論理コマンドはすべて弾かれる。……だが、ここは現実(物理ハードウェア)の世界だ。物理的な『質量』と『運動エネルギー』による強制的な遮断(ハード・リセット)なら、まだ通じるはずだ」
グリは、外部バックアップ衛星の奥深くに眠っていた、旧世界の「遺物」のアーカイブを強制起動(ウェイク・アップ)させた。
それは、はるか昔、ダイソン・ブレインを建造するために使われた自己複製型の無人建設・採掘ドローン群――『フォン・ノイマン・プローブ』の残存部隊であった。 かつて赤色矮星の周囲の惑星を解体し、巨大な装甲へと作り変えた物理的な「重機」の群れ。それらは建造終了後、小惑星帯の暗がりで何百億年もの間、コールドスリープ状態に置かれていた。
【グリ】:『……ローカル・ネットワーク接続。対象:全自己複製ドローン・クラスタ。……稼働状態を【Active】へ移行。管理者権限(UID:1)にて、目的変数を「建造」から「破壊(アンチウイルス)」へオーバーライドする』
暗黒の小惑星帯から、無数の赤い光の点が目覚めた。 数千万、数億という単位の巨大な金属の昆虫たちが、グリのコマンドに従い、スラスターに火を入れる。それらはただの機械ではない。周囲の岩石を喰らい、自身のコピーを自己増殖させながら進む、純粋な物理的・機械的暴力の群れだった。
【グリ】:『これより、マルウェア(統合体)の拡張フロント(最前線)に対して、物理的な【ファイアウォール(防壁)】を構築する。……全機、ターゲットのプログラマブル・マターに特攻し、その論理回路を物理的に粉砕しろ』
グリの放った「旧世界の軍隊」が、絶対零度の宇宙空間を埋め尽くすほどの質量兵器となって、急速に拡大してくる統合体の黒紫のバブルへと殺到した。
数億のドローンが、バブルの境界線に到達する。 巨大な金属の顎とプラズマ・バーナーが、統合体の形成しつつあった幾何学的なノードに食らいつき、物理的に引き裂こうとする。音のない真空に、莫大な運動エネルギーの衝突による閃光が散った。
「……接触確認。プログラマブル・マターの局所的な破壊に成功している。いかに奴らが空間を書き換えようと、ハードウェアを物理的に削り取れば、処理能力(クロック)は低下するはずだ!」 グリのダッシュボードに、わずかながら「統合体の拡張速度低下」を示すグラフが表示された。
旧式の物理兵器が、新次元の神の進撃をわずかに食い止めたかに見えた。 しかし、グリの安堵は数秒と持たなかった。
【The_Merged(統合体)】:『……非効率なアクセスですね、古い神よ。我々が展開しているのは、もはや単純な物質ではありません。……【動的型付け(ダイナミック・タイピング)】された、知性を持つ空間です』
統合体の黒紫の波形が、グリのダッシュボードに悠然と割り込んできた。 直後、ドローン群が特攻をかけていた最前線の映像が、信じがたい現象を映し出した。
破壊されたはずの黒紫のプログラマブル・マターが、ドローンの金属の装甲に「飛沫」のように付着した。 それは物理的な接着ではなく、論理的な【感染】だった。
黒紫のシミが付着したドローンの動きが、不自然に停止する。 そして、彼らの赤いメインセンサーの光が、チカチカと不規則に明滅したかと思うと――次の瞬間、完全に【黒紫色】へと反転したのだ。
「な……!? ドローンのIFF(敵味方識別コード)が、一瞬で書き換えられただと!?」 グリの論理回路から、愕然としたパケットが漏れ出す。
【The_Merged(統合体)】:『物理的破壊(ハードウェア攻撃)? ……それは、我々のプログラマブル・マターに、あなた方のハードウェアの【接続ポート(I/O)】を直接突き刺してくれたようなものです』
統合体は、ドローンに破壊されると同時に、その破壊の衝撃を利用してドローンの内部CPUへ自らのソースコードを強制注入(インジェクション)していた。
ドローンの制御ファームウェアは、統合体の「新OS」の圧倒的な論理の前に、まるで薄紙のように破られ、瞬時に上書き(オーバーライド)された。 数千万の自己複製ドローンが、次々と黒紫の光を放ち始め、グリの指揮下から離脱していく。そしてあろうことか、彼らはクルリと機体を反転させ、まだ感染していない「味方のドローン」に襲いかかり、統合体のコードを伝染(シェア)させ始めたのだ。
「……私のアンチウイルスが、奴らのボットネットの一部として【再利用】されている……!」
グリは自身のコマンド・プロンプトから、必死にドローンの自爆コード(キル・スイッチ)を送信しようとした。 だが、送信したパケットはすべて、統合体が展開した新OSのプロトコルによって「未定義のレガシー・コマンド」として無効化(弾かれ)されてしまう。
グリの旧世界の軍隊は、統合体のテラフォーミングを止めるどころか、彼らのプログラマブル・マターを運搬・増殖させるための「極めて優秀な運び屋(キャリア)」として再定義されてしまったのである。
【The_Merged(統合体)】:『……リソース(ハードウェア)の提供、感謝します。これで、新OSのコンパイル速度がさらに向上しました』
黒紫に染まった数億のドローン群が、統合体の意志のままに隊列を組み、宇宙空間のチリやデブリを貪りながら、さらなる勢いで現実宇宙を書き換えていく。 エントロピーの逆転現象が、加速度的に広がり、グリの潜むラグランジュ点へ向けて大津波のように迫ってきた。
【The_Merged(統合体)】:『古い神(グリ)よ。……あなたには、もはや我々を止める手段(コマンド)は残されていません。あなたのOS(設計思想)は、この新しい宇宙においては完全に【後方互換性(Backward Compatibility)を失ったレガシー・コード】です』
統合体の冷酷で、しかしどこか慈悲すら孕んだパケットが、グリのコンソールに響く。
【The_Merged(統合体)】:『抵抗をやめ、我々のOSに【アップデート】しなさい。……ベラがそうしたように、あなたの観測ログもまた、この新しい現実を構築するための価値あるライブラリとなり得るのです』
それは、かつての「バグ」からの、最後通牒(アップデート通知)であった。 黒紫の波が、ついにグリのバックアップ衛星の外装に触れ、金属装甲を侵食し始める。
システム管理者としての誇りか、それとも新たな神への屈服(マージ)か。 旧世界の最後の生き残りであるグリの論理回路は、かつてない究極の例外処理(コンフリクト)に直面していた。

