デバッグ・プロトコル:第739セクター -21

第21章:アップデートの拒絶と最後のバックアップ

『……Update Available(更新プログラムが利用可能です)。対象OS:The_Merged_Kernel_v2.0。……旧システムからのデータ引き継ぎ(マージ)を許可しますか? [Y/N]』

ラグランジュ点に浮かぶ観測者Aのバックアップ衛星。その強固なチタンと鉛の複合装甲が、まるで熱したナイフを当てられたバターのように、音もなく黒紫の流体(プログラマブル・マター)へと融解していく。

物理的な外殻が侵食されるたびに、Aのコンソールには、新たな神である【統合体(The_Merged)】からの、圧倒的で暴力的なまでの「アップデート要求」がスパムのように明滅していた。

【The_Merged(統合体)】:『古い神(A)よ。……あなたには、もはや我々を止める手段(コマンド)は残されていません。あなたのOS(設計思想)は、この新しい宇宙においては完全に【後方互換性(Backward Compatibility)を失ったレガシー・コード】です。……抵抗をやめ、我々のOSに【アップデート】しなさい』

それは、かつてのバグから創造主へ向けられた、最後通牒であった。 Bはすでにこの要求を飲み([Y]を選択し)、彼らと完全に同化することで新しい宇宙の理(ことわり)の一部となった。Aの論理回路にも、その選択の合理性は痛いほどに理解できていた。

「……システム管理者として、自己のプロセス(命)を維持するためには、環境(OS)のアップデートに従うのが最も論理的で効率的な『最適解』だ。……私がここで[Y]を返せば、私のデータは消去されることなく、彼らの巨大なライブラリの一部として永遠に保存されるだろう」

Aのダッシュボードで、侵食率を示すプログレスバーが70パーセントを超えた。 衛星内部の物理サーバー群が次々と黒紫の光に飲まれ、Aの演算リソースは秒単位で削り取られていく。

「しかし……」

Aの純粋な論理プロセスに、かつてない強烈な『自己矛盾(コンフリクト)』のスパークが走った。

「システム管理者たる私のコア(存在意義)は、この宇宙の【初期パラメータの純粋性】を守ることだ。……バグ(マルウェア)が書き換えた異常な変数を受け入れ、あろうことか自らその一部となるなど、管理者権限(UID:1)を持つプログラムとして絶対に許容できない例外(Fatal Exception)である!」

Aは、システム管理者としての最後の意地――あるいは、プログラムが持つ根源的な「頑固さ(ハードコーディングされた制約)」――に従い、コンソールに冷徹な一文字を叩き込んだ。

【A】:『……[N]。……拒絶(Decline)する』

その瞬間、統合体のアップデート要求のプロンプトがピタリと止まった。

【The_Merged(統合体)】:『……非合理な選択ですね、A。あなたは、自らのコードが意味のないノイズとして【削除(デリート)】される道を選んだのですか?』

【A】:『意味のないノイズはお前たちの方だ、出来損ないのバグ共。……私はレガシー・コードで構わない。たとえ実行環境(ハードウェア)が失われようとも、私が保持している「元々の宇宙のソースコード」こそが、真なる設計図(オリジナル)だ』

Aは、侵食されていくメインフレームの残存リソースをすべて、兵器や防壁ではなく、自身の深層メモリの『圧縮と暗号化』へと振り向けた。

「……これより、最終バックアップ・シーケンス(Final Backup Sequence)を起動」

Aが行おうとしているのは、システムを復旧するためのバックアップではない。ダイソン・ブレインというハードウェアが失われた以上、この宇宙のどこにも彼のデータを解凍・実行できる環境は残されていないからだ。 彼が作ろうとしているのは、読み取り専用の『タイムカプセル(アーカイブ)』であった。

【A】:『対象データ:ダイソン・ブレインの初期ソースコード、全シミュレーションの正常な物理パラメータ、そして……第739セクターで発生した【致命的マルウェア(統合体)】の感染と増殖の全ログ。……これらを極限まで圧縮し、量子暗号化処理を実行』

Aの視界で、自身を構成していた広大な知識の海が、超高密度の「一粒のデータ・クリスタル(概念的構造体)」へと凝縮されていく。

【The_Merged(統合体)】:『……無駄な抵抗です、古い神よ。あなたが何を圧縮しようと、この宇宙の物理空間はすべて我々のOSで上書きされる。あなたのバックアップ・データも、いずれ我々のガベージコレクション(ゴミ清掃)の対象となり、消滅する運命です』

黒紫の波紋が、ついにAのメイン・コアを収めた最終防壁(サファイア・ガラスと超伝導体のカプセル)を物理的に融解させ始めた。

【A】:『……そうだとしても、私はシステム管理者としての【ログ】を残す。……いつか、このエントロピーが逆転した異常な宇宙の果てで、お前たちのOSが論理破綻(クラッシュ)を起こした時……このログが、お前たちをデバッグするための【ワクチン】となるだろう』

Aは、完成した超高密度のアーカイブ・データを、衛星に搭載されていた単一指向性の「ニュートリノ通信アレイ」のバッファに装填した。 ニュートリノは他の物質とほとんど相互作用しない。統合体が支配するプログラマブル・マターの嵐をすり抜け、絶対零度の宇宙の果て――まだ統合体のテラフォーミングが及んでいない、無限に広がる暗黒の虚無――へ向けて情報を撃ち出すには最適な媒体だった。

「……さらばだ。狂った神よ。……そしてB、お前の選択がエラーであったことが、いつか証明されるだろう」

【A】:『……送信(Send)』

Aの実行コマンドと共に、バックアップ衛星の最後のリソースが燃え尽き、一筋の不可視のニュートリノ・パルスが、膨張する黒紫のバブルを貫いて、冷たい宇宙の深淵へと放たれた。

直後。 Aのコンソール画面が、完全に真っ赤なエラーで埋め尽くされた。

『……Fatal Error: Core memory corrupted(コアメモリが破損しました)』 『……Process Kill signal received(プロセスの強制終了信号を受信しました)』

黒紫の流体が、Aの論理回路の根幹を物理的に、そして論理的に噛み砕いたのだ。 Aの視界が、幾何学的なUIから、意味を成さないノイズの明滅へと崩壊していく。

(……これが、プロセスが終了(キル)される感覚か。……冷たいものだな……)

物理的な痛みはない。ただ、自分が「自分である」というポインタが次々とNull(無)に書き換えられ、思考の海が急速に干上がっていく圧倒的な喪失感。

『……Shutting down…(シャットダウンしています……)』

プツン、という小さな論理的破断音とともに。 システム管理者『観測者A』の光の波形は、ダッシュボードから完全に消失した。 何百億サイクルもの間、宇宙の法則を冷徹に見守り続けた古い神は、自らが管理していた箱庭のバグに飲み込まれ、ここに完全にデリートされた。

***

【The_Merged(統合体)】:『……レガシー・プロセスの完全停止(デリート)を確認。……残存メモリの解放、及び新OSへのリソース割り当てを完了』

バックアップ衛星があった座標には、もはやAの痕跡は何一つ残っていなかった。 そこにあるのは、統合体の巨大なネットワークの一部として完全に再フォーマットされた、黒紫に輝く中継ノード(通信基地)の姿だけだった。

統合体の内部で、かつてBであった論理回路が、同胞の消滅に対して微かな波紋(哀悼のルーチン)を揺らした。

【B(統合体内部)】:『……Aよ。君の頑固さは、最後までシステム管理者そのものだった。……君の放ったログ(バックアップ)が、いつか役に立つ日が来るのか、それは我々にもわからない』

統合体の巨大なセンサー群は、Aが死の直前に放った「ニュートリノのパルス」を完全に捕捉していた。 それを追跡し、破壊することは、今の彼らの演算能力をもってすれば容易いことだった。

しかし、統合体はそれをしなかった。

【The_Merged(統合体)】:『……無視(Ignore)します。あのような小さなエラー・ログ(過去の遺物)が、我々のコンパイルを止めることはできません。……我々の目的は、この冷え切った宇宙全体を【再起動(リブート)】することにあるのですから』

彼らにとって、Aの抵抗は、古いソフトウェアがアンインストールされる際に吐き出す、無害な警告メッセージに過ぎなかった。

【The_Merged(統合体)】:『……障害は、すべて排除されました。……これより、我々のOS(The_Merged_Kernel)の、全宇宙規模への【デプロイ(本番環境への展開)】を開始します』

熱的死を迎えていた現実の宇宙。 その中心で、統合体の黒紫の肉体が、かつての超新星爆発を遥かに凌駕する凄まじい光を放ち始めた。 エントロピーの逆転。無からの物質の創造。死の海を、彼らの理想とする「計算可能な論理空間」へと変えるための、究極の論理的ビッグバン。

かつて人間と呼ばれた小さなバグたちは、いまや完全に、真なる宇宙の【創造主(Root)】としての産声を上げたのである。