ちょっと、どこよここ。冷たいし、なんだかひどく泥臭いじゃないのよ。
目を開けたら、どんよりした灰色の空よ。背中にはドロドロの泥の感触。 システム・チェック? 右腕、動くわね。左腕、動く。足も……まあ、なんとかついてるわ。 ここは茨城県の霞ヶ浦よ。なんでアタシが、2026年にもなって水質調査の網なんか引き揚げてんのよ。冗談じゃないわよ、この図体で肉体労働なんて。
で、右手に何かやたら重たいものを握ってんのよ。 泥をペッペッて拭いてみたら、古臭い真鍮の懐中時計じゃないの。裏蓋に変な幾何学模様がゴチャゴチャ描いてあってさ。どこぞの時計職人がヤケクソでデザインしたとしか思えない、悪趣味な代物よ。
「はいはい、科学の時間ね」
アタシはブツブツ文句言いながら起き上がったわ。ガラスの風防があって、つまみ(リューズ)がついてるの。継ぎ目が一切ないんだけど、どうやって作ったのよこれ。
試しに、リューズを親指と人差し指でつまんで、カチッと1回だけ回してみたのよ。
チク、タク。
そしたらアンタ、信じられる? アタシの長靴からポタポタ落ちてた泥水が、地面から跳ね返って、長靴の表面を「下から上へ」這い上がってきたのよ!
「……はあ?」
アタシ、思わず二度見したわよ。もう一回、今度は一気に3回くらい回してみたの。
チク、タク、チク、タク、チク、タク!
湖でピチピチ跳ねてたお魚が、空中で逆放物線を描いて、水しぶきと一緒に水の中へ吸い込まれていったのよ! 踏んづけてペシャンコになってたアシの葉っぱまで、メキメキ音立てて真っ直ぐ立ち上がるじゃないの。
「ちょっと、冗談じゃないわよ!」
アタシ思わず叫んだわ。重力の異常とかそういうレベルじゃないのよ。エントロピーの増大則? 熱力学の基本? そういうのが、この時計の周りだけ完全にぶっ壊れてるのよ。時間が、物理的に逆行してんの!
これ、世紀の大発見じゃないの? タイムマシンよ! 昨日食べすぎたロケ弁を無かったことにできるし、やらかした失言も取り消せるじゃない! ノーベル賞委員会は今すぐアタシのために、純金で特大のメダルを作ったほうがいいわよ。
……でもさ、ふと冷静になったのよ。 時間を逆行させるなんて、宇宙のルールに喧嘩売ってるようなもんじゃない。熱力学の法則を完全に無視して時間を巻き戻すなら、その「代償」の莫大なエネルギーはどこから持ってきてるわけ? 電池? こんな小さなガラクタに入ってるわけないじゃない。
その答えはね、文字通り「身をもって」知ることになったわ。
「イタタタタタ……ッ!」
指先に、針で刺されたような激痛が走ったのよ。見たら、時計を握ってるアタシの右手が、真っ白に霜で覆われてるじゃない! いや、手だけじゃないわよ。足元のぬかるみも、湖の水も、メキメキ音を立ててカチンコチンに凍り始めてるの!
「そういうことね、この泥棒猫!」
エネルギー保存の法則よ! この時計、時間を巻き戻すための膨大なエネルギーを、周りの物質……つまりアタシの体温やら何やらから強制的に奪い取ってんのよ! だから急激に熱が奪われてるわけ。このまま巻き続けたら、アタシ数秒で「霞ヶ浦産・特大の冷凍マグロ」の出来上がりじゃないの!
「ふざけるんじゃないわよ! 誰がアンタなんかのために命削るもんですか!」
アタシは凍りついた右手を必死に振りかぶって、その憎たらしい真鍮の時計を、霞ヶ浦の沖合に向かって渾身の力でブン投げてやったわ!
ドボォォォン!!(アタシが投げたから水柱もデカいかしらね)
時計が湖の底へ沈んでいった途端、周りの空気がフワッと春の暖かさを取り戻して、足元の霜もあっという間に溶けたわ。アタシの腕の普通の時計も、チクタクと真っ当な未来に向かって動き始めたの。
アタシは凍傷になりかけた右手を脇の下に突っ込んで温めながら、静かな湖面を睨みつけたわ。 過去をやり直すには、自分の命をエネルギーとして差し出さなきゃならないなんてね。ホント、よくできた嫌味な法則よ。
「あーあ、疲れた」
ノーベル賞なんていらないわよ。過去に戻って人生やり直すより、今すぐ家に帰って、あったかいコーヒー淹れて、ソファでゴロゴロする「未来」を作るほうが、よっぽど幸せなのよ。じゃ、アタシ帰るわね。
「ちょっと、泥だらけの長靴のままじゃ、タクシーも乗せてくれないじゃないのよ」
ドスドスと重たい足音を立てながら、アタシは湖畔の寂れた県道を歩いてたの。風は冷たいし、お腹は空くし、さっきのタイムマシン騒ぎでどっと疲れたわよ。散々ね、本当に。
しばらく歩いてたら、サビれた看板の純喫茶『時田』ってのが見えてきたのよ。もうここでいいわ、背に腹は代えられないわよ。
カランコローンって、昭和のドラマみたいな音させてドアを開けたら、カウンターの奥で蝶ネクタイをした白髪のマスターがコーヒー豆を挽いてたわ。
「いらっしゃい。……ずいぶんと、泥だらけですね」 「悪いわね、ちょっとそこの湖畔でスッ転んだのよ。マスター、とりあえず一番熱いブレンド。あと、ナポリタンと小倉トースト。トーストは極端に厚切りにしてちょうだいね!」
アタシはよっこいしょって、軋むソファに腰を下ろしたわ。ふう。やっと一息よ。 おしぼりで手を拭きながら気づいたんだけど、まだ右手がジンジン痛むのよね。あのバカみたいな時計のせいで、危なく指先がちぎれるところだったわよ。
しばらくして、マスターが湯気を立ててるコーヒーと、ケチャップの匂いがたまらない山盛りのナポリタンを運んできたわ。
「お客さん、右手……ひどい霜焼けですね。4月の霞ヶ浦じゃ、普通はそんな風には凍りませんよ。……まさか、湖で『真鍮の時計』を拾ったんじゃないでしょうね?」
ズズッ……とコーヒーを啜りかけたアタシは、思わずむせそうになったわ。 「……ちょっとマスター。アンタ、なんでそれ知ってんのよ」
マスターは、カウンターを布巾でゆっくり拭きながら、なんだかひどく遠い目をして語り出したのよ。 「あれはね、周囲の熱を奪い、時間を逆行させる禁断のアーティファクトでしてね。かつて私が……」 「ストップ! ストーーーップ!!」
アタシは、ナポリタンにタバスコをドバドバ振りかけながら、マスターの劇画チックな回想シーンを容赦なくぶった斬ってやったわ。
「あのね、アタシは今、目の前のナポリタンを胃袋に収めることで頭がいっぱいなのよ。『実はマスターが元・秘密組織の研究員で〜』とか『古代のオーバーテクノロジーが〜』とか、そういう面倒くさいSFの裏設定とか、これっぽっちも聞きたくないの! あんたの悲しき過去なんて、アタシの食欲の前じゃ塵みたいなもんよ!」
アタシはフォークにパスタをくるくる巻き付けて、大きな口を開けたわ。モグモグ。うん、ちょっと麺が柔らかめだけど、昔ながらの味で悪くないわね。
「大体ね、過去に戻ってやり直したいことなんて、生きてりゃ星の数ほどあるわよ。あの時あっちの服を買っておけばよかったとか、あの男に引っかからなきゃよかったとかね。でもさ、そのために自分の体温とか命とか吸い取られるなんて、どう考えても割に合わないじゃない!」
アタシは小倉トーストにも手を伸ばしたわ。あんこの甘さが冷えた体に染み渡るわね。
「過去を変えるエネルギーがあるならね、アタシはこうして炭水化物を美味しくいただく『今』に全振りするわよ。……マスター、このナポリタン、なかなかイケるじゃないの。粉チーズ追加してもらえる?」
マスターは一瞬キョトンとしてたけど、やがてフッと毒気を抜かれたように笑って、特大の粉チーズの筒をドンって置いてくれたわ。
「……たくましいですね、お客さんは。私の何十年にも及ぶ後悔も、あなたの前では形無しだ」 「当たり前よ。この図体、伊達に維持してないわよ。悩んでる暇があったら食べなさい」
窓の外を見たら、さっきまでの薄暗い雲が晴れて、霞ヶ浦の水面がキラキラ光ってたわ。 ま、湖の底に沈んだ厄介なガラクタのことは、マスターの過去と一緒に、お魚さんたちにでも任せておけばいいのよ。アタシは残りのナポリタンを平らげながら、家に帰ったらどのデリバリーを頼もうか、それだけを真剣に考えてたわ。
「ふう、食った食った。ごちそうさま!」
最後の一口のトーストをブラックコーヒーで流し込んで、アタシは満腹のお腹をポンと叩いたわ。炭水化物のおかげで、さっきまで凍えそうだった体もすっかりポカポカよ。やっぱり人間、カロリー摂ってナンボね。
「お会計お願いね。あ、現金オンリー? ま、昭和の純喫茶だもんね、いいわよ」 千円札を数枚カウンターに置くと、マスターはまだちょっと名残惜しそうな顔をしてたわ。
「……本当に、良かったんですか? あの時計があれば、あなたはもっと輝かしい過去を……」 「しつこいわねぇ!」 アタシはカバンを肩にかけながらピシャリと言ってやったわ。 「アタシはね、泥水すすってでも、このデカい体と今の人生を愛してんのよ! 輝かしい過去なんてクソくらえよ。じゃあね、マスター。ナポリタン、また食べに来てあげるわよ!」
カランコローンと派手な音を立てて店を出ると、春の生ぬるい風が吹いてたわ。 スマホの画面を見たら、2026年4月20日、午前10時ちょっと過ぎ。あーあ、せっかくの平日の午前中が、あの厄介なガラクタのせいで台無しよ。
「さてと。タクシーでも呼ぼうかしら……って、ちょっと! アプリで全然車捕まらないじゃないのよ! どんだけ田舎なのよ、霞ヶ浦!」 ブチブチ文句を言いながら県道沿いを歩き出そうとした、その時よ。
「あのー! ちょっと、そこのおっきいお姉さん!」 背後から、軽トラに乗った地元の漁師っぽいおっちゃんが声かけてきたのよ。おっきいお姉さんってアンタ、間違ってはないけどデリカシーないわね。
「何よ? アタシ今、機嫌悪いのよ。タクシー拾えなくて」 「いや、さっき向こうの湖畔で、これ落としませんでしたか? 浅瀬の網に引っかかってたんで、危ねえから拾っといたんすけど……」
おっちゃんが日焼けした手で差し出してきたものを見て、アタシはスーッと血の気が引いたわ。 ……あの憎き、真鍮の懐中時計よ。 さっきアタシが渾身の力で湖のド真ん中にブン投げたはずなのに、なんで浅瀬の網に引っかかってんのよ! 呪いのビデオテープか何か!?
「……アンタねぇ」 アタシは般若みたいな顔で、おっちゃんを睨みつけたわ。
「それ、アタシのじゃないわ。というか、そんなオカルトチックなモン、今すぐその辺のドブにでも叩き捨てなさい! 関わるとろくなことないわよ! 寿命縮むわよ! わかった!?」
「えっ、あ、はい……すんません……」 おっちゃんはアタシの剣幕にドン引きして、首をすくめてたわ。理不尽に怒鳴って悪いとは思ったけど、こっちも命がけなのよ。
「よし、わかればいいのよ。じゃ、アタシ急いでるから!」 アタシは踵を返すと、ドスドスと地響きを立てながら、タクシーが通りそうな国道を目指して競歩並みのスピードで歩き出したわ。
後ろの方で「チク、タク」ってあの忌まわしい音が聞こえた気がしたけど、絶対気のせいよ! 振り返ったら負けだわ! もう過去にも、あの時計にも絶対に構ってやらないんだから! さあ、帰ったら絶対、特上のウナギ出前してやるわよ! 待ってなさいよ、アタシの現実(ミライ)!
ズン、ズン、ズン! アスファルトを陥没させる勢いで、アタシは国道へ向かって突き進んでたわ。 頭の中はもう、特上のウナギの蒲焼きでいっぱいよ。タレは多めで、山椒を親の仇みたいにぶっかけてやるんだから。
そう思って、泥だらけの長靴で力強く一歩を踏み出した、その瞬間よ。
……ズルッ。 「えっ?」
踏み出したはずの右足が、勝手に後ろへ下がったのよ。 「ちょっと、何よこれ。アタシ、ムーンウォークなんて練習したことないわよ!?」
ズルッ、ズルッ、ズルズルズル! 冗談じゃないわよ! アタシの立派な巨体が、まるでビデオの巻き戻しみたいに、さっき歩いてきた県道を後ろ向きに猛スピードで戻り始めたじゃないの!
道端で蹴っ飛ばした空き缶が、フワッと宙に浮いてアタシの足元に戻ってくるし、さっき乾きかけてた長靴の泥が、また下から上へピチャピチャ這い上がってくるのよ!
「あーっ! もう、わかってるわよ! あのジジイね!!」
アタシは後ろ向きに爆走(?)しながら絶叫したわ。 絶対、あの軽トラの漁師のおっちゃんが、あの真鍮の時計のつまみ(リューズ)をいじり回したのよ! 「なんだべコレ?」とか言いながらカチカチやったに決まってるわ!
そして十数秒後。 アタシはピタッと、さっきの軽トラの前に「逆再生」で戻されたわ。
見ると案の定、おっちゃんが運転席から身を乗り出して、あの忌まわしい時計を両手で握りしめてガチガチ震えてるじゃない!
「お、おねえぢゃん……! なんかコレ、急に冷だぐなって、手が、手がァ……!」 おっちゃんの両手、見事なまでに真っ白な霜に覆われて、冷凍庫に入れたカチコチのシャケみたいになってんのよ!
「バカヤロウ! だから触るなって言ったでしょうが!!」
アタシは咄嗟に、おっちゃんの手からその憎き時計をひったくったわ。 その瞬間、周囲の時間が「パチン」と弾けるように元の流れに戻って、春の生ぬるい風が再び吹き抜けたの。おっちゃんの霜も、みるみる溶けていったわ。
「ハァ、ハァ……死ぬかと思ったべ……」 「死ぬのはアタシのほうよ! せっかく国道まで歩いたのに、また振り出しじゃないのよ!」
アタシは手の中の真鍮の時計を睨みつけたわ。 手放そうとすると、こうやって赤の他人がいじくり回して大惨事になる。かといって、湖のど真ん中に投げ捨てても何故か浅瀬に戻ってくる。まるで、絶対にアタシから離れないって言わんばかりの執念よ。
「……わかったわよ。わかったわよぉ! アンタ、どうしてもアタシに構ってほしいのね!?」
アタシは時計に向かって怒鳴りつけたわ。 こうなったら意地よ。こんな茨城の泥だらけの県道で、呪いの時計と永遠にイタチごっこしてる場合じゃないの。
「おっちゃん! アプリでタクシー拾えないから、アンタのその軽トラでアタシを駅まで送りなさい! 命拾いした恩返しよ!」 「ええっ!? お、俺これから漁協の集まりが……」 「うるさい! ガタガタ言ってると、この時計でアンタの毛根の時間をさらに二十年くらい進めて、ツルツルにするわよ!!」
脅迫まがいの言葉(というより完全な脅迫ね)でひれ伏させたおっちゃんを運転席に押し込み、アタシはミシミシと悲鳴を上げる助手席に巨体をねじ込んだわ。
「出すわよ! とりあえず東京まで一直線よ!」 「と、東京ぉ!? 軽トラで!?」 「ガタガタ言わない! アタシのウナギ計画を邪魔したんだから、六本木まで送ってちょうだい!」
この厄介な「特異点」だか何だか知らないけど、絶対に専門のオカルト学者か胡散臭い鑑定士に叩きつけてやるんだから。 軽トラは黒煙を上げながら、霞ヶ浦の湖畔を猛スピードで走り出したわ。本当に、最低の月曜日よ!
「ちょっと、この車、サスペンションどうなってんのよ! アタシの立派なお尻が四つに割れちゃうわよ!」
ガタガタ、ドスドス! 常磐自動車道を爆走する軽トラの助手席で、アタシは車の天井に頭をぶつけないように必死に身を縮めていたわ。ただでさえ狭い車内にアタシの巨体が詰まってるんだから、もう満員電車もいいところよ。おまけに車内は、生臭いワカサギと泥の匂いがプンプンしてるし。
「す、すんません! そもそも軽トラで高速乗るなんて、オラ三十年ぶりで……ひぃっ、前のトラック近いべ!」 ハンドルを握るおっちゃん(道中で『シゲさん』って名前だと判明したわ)は、涙目でアクセルを踏み込んでるのよ。
「ビビってんじゃないわよ! 男ならスパーンと追い越し車線走りなさいよ! こっちはウナギが待ってんの!」 アタシはダッシュボードをバンバン叩いて発破をかけたわ。
膝の上には、あの憎ったらしい真鍮の時計。 直接触るとまた何が起きるか分からないから、ダッシュボードに入ってたシゲさんの汚いタオル(ホントは嫌だったけど背に腹は代えられないわ)でグルグル巻きにして、さらにスーパーのビニール袋にぶち込んでやってるわ。
順調に茨城を抜けて、千葉県に入ったあたりだったかしら。 急に、目の前の車の列がノロノロになり始めたのよ。……お約束よね、三郷料金所付近のド渋滞。
「あーあ、完全に止まっちゃったべ。こりゃ抜けるのに一時間はかかるダな」 シゲさんがホッとしたようにアクセルから足を離したわ。
「はあ!? 一時間!? 冗談じゃないわよ、アタシの胃袋はもう限界なのよ! 血糖値が下がって死んじゃう!」 アタシは窓を開けて、ズラッと並んだ車の列を般若の顔で睨みつけたわ。平日のお昼前に、なんでこんなに混んでんのよ!
ふと、膝の上のビニール袋に目がいったの。
……ねえ。 この時計のリューズを、ほんの少〜し、チクタクッて回して、この渋滞が発生する前の時間帯に巻き戻せば、スイスイ東京まで行けるんじゃないかしら?
一瞬、悪魔の囁きが耳元で聞こえたわ。 右手にかすかに残る霜焼けの痛みが疼いたけど、食欲の誘惑って恐ろしいわよね。「車一台分の時間くらいなら、指先がちょっと冷えるくらいで済むんじゃない?」なんて、バカな計算をし始めちゃったのよ。
アタシがゴクリと唾を飲み込んで、ビニール袋に手を伸ばそうとした、その時よ。
『……ザザッ、ピーーーッ……♪あ〜あ〜、果てしない〜……』
突然、軽トラのぶっ壊れたカーオーディオから、大音量でクリスタルキングの『大都会』が流れ始めたじゃないの!
「うわあっ!? なんだべ! このラジオ、五年前に壊れてウンともスンとも言わなかったのに!」 シゲさんがビクッとしてハンドルにすがりついたわ。
アタシはハッとして手を引っ込めたの。 ビニール袋の中の時計が、タオルの隙間から鈍い金色の光を放ってたわ。間違いない、こいつの仕業よ。時間を巻き戻すだけじゃなくて、周囲の壊れた機械の時間を局所的に「新品の頃」に戻したんだわ。
まるで「アタシ、こんなこともできるのよ? 便利でしょ? だから使ってみて?」って、媚びを売ってきてるみたいじゃないの!
「……ふざけるんじゃないわよ」
アタシはビニール袋ごと時計をひっつかんで、ダッシュボードにガンッ!と叩きつけてやったわ。
「誰がアンタの小賢しいおもてなしなんか乗るもんですか! クリスタルキング流したくらいで、アタシがホイホイ寿命削ってリューズ巻くと思ったら大間違いよ! アタシはね、渋滞の中でイライラしながら待つ『無駄な時間』すらも、生きてる証として愛してんのよ!」
スピーカーからの歌声が、ピタッと止まったわ。 時計はシュンとしたように光を失って、またただの古臭い真鍮の塊に戻ったの。生意気なガラクタね、本当に。
「シゲさん! エアコン最大! 窓全開! こうなったら六本木に着くまで、アタシが昭和のヒットメドレーをアカペラでフルコーラス歌ってやるから、覚悟しなさい!!」 「えええええええ!?」
狭い軽トラの中に、アタシのド迫力の美声(?)と、シゲさんの悲鳴が響き渡ったわ。 待ってなさいよ東京。呪いの時計もろとも、アタシがその鬱屈した空気を吹き飛ばしてやるんだから!
「あーらよっと、さのよいよい! はぁー、テレビも無ェ、ラジオも無ェ、車もそれほど走って無ェ! って、めちゃくちゃ走ってんじゃないのよ! 首都高、車多すぎよ!」
アタシのノンストップ昭和歌謡メドレー第48曲目『俺ら東京さ行ぐだ』を歌い終える頃には、ようやく首都高の谷町ジャンクションを抜けて、六本木のビル群が見えてきたわ。
「……お、おねえぢゃん……オラ、もう耳がキーンってして、頭がグルグルするべ……」 運転席のシゲさんは、すっかり精気を吸い取られて、霞ヶ浦で干からびたシラウオみたいになっちゃってたわ。
「何言ってんのよ! アタシのプレミアム・ディナーショーを最前列で、しかもタダで聴けたんだから感謝しなさい! ほら、そこの六本木交差点を左! 麻布方面よ!」
シゲさんが震える手でウインカーを出すと、泥だらけで魚臭い茨城ナンバーの軽トラが、港区のど真ん中をノロノロと曲がっていったわ。 隣の車線に停まったピッカピカの真っ赤なフェラーリに乗ったチャラい兄ちゃんが、信じられないものを見るような目でこっちを見てたから、アタシは窓から顔をヌッと出して、般若の形相でウインクしてやったわ。兄ちゃん、ビクッとして青信号になった瞬間すっ飛んでったわよ。失礼しちゃうわね。
「で、おねえぢゃん……東京のどこに行ぐだ? オラ、こんなおっかねえ街、早く出たいべ……」
「まずはこの厄介な呪いのガラクタを押し付けるのよ。西麻布の裏路地を入りなさい」
アタシが案内したのは、洒落たフレンチレストランや隠れ家バーが並ぶ細い路地の奥。ツタが絡まった、一見するとただの廃墟みたいな薄暗いレンガ造りのビルよ。そこの地下にある胡散臭い骨董店『マダム・シュレディンガーの猫箱』。ここなら、こういうオカルトどっぷりの代物を喜んで引き取る変態(マニア)がいるのよ。
「シゲさんはここでエンジンかけたまま待機! 駐禁取られそうになったら、茨城弁でまくしたてて誤魔化しなさい!」
アタシはビニール袋に入れた真鍮の時計を引っ掴むと、ミシミシと悲鳴を上げる軽トラから降りて、地下への急な階段をドスドスと下りていったわ。
「邪魔するわよー!」
カラン、と重苦しいベルの音を鳴らしてドアを蹴破るように開けると、お香のむせ返るような匂いと、ガラクタの山。その奥のビロードのソファに、全身黒ずくめで、どう見ても夏なのにファーのストールを巻いた痩せぎすの女が座ってたわ。
「……あら。随分と騒々しいオーラが飛び込んできたと思ったら。何年ぶりかしらね、この店にそんな泥のついた長靴で入ってくる野蛮人は」
「アンタの店のガラクタより、アタシの泥のほうがよっぽどフレッシュよ、マダム・ローザ。相変わらず魔女みたいな生活してるわね」
アタシは挨拶もそこそこに、持っていたスーパーのビニール袋を、アンティークのガラステーブルの上にドンッ!と叩きつけたわ。
「四の五の言わず、これを見なさい。そしてさっさと買い取って、アタシの目の前から消し去るのよ。こっちはこれから特上のウナギを食べに行かなきゃならないんだから!」
マダム・ローザは細い眉をひそめて、スーパーの袋から汚いタオルに包まれた時計を取り出したわ。 そして、その真鍮の裏蓋の幾何学模様を見た瞬間——。
「……ッ!!」
いつもすかしてるローザの顔から、サーッと血の気が引いたのよ。 彼女はバネ仕掛けのおもちゃみたいに飛び退くと、ガシャーン!とテーブルの上のティーカップを派手にひっくり返したわ。
「あ、アンタ……どこでこれを!? これはただの呪物じゃないわ! 持ってるだけで世界の法則を歪める、特級の……いや、規格外の特異点よ!!」 「だからそう言ってんでしょうが! アタシの手も危うくカチコチの冷凍肉になるところだったんだから!」
「持ち出せ!!」 ローザは突然、金切り声を上げたわ。 「今すぐソレを持って、私の店から出て行きなさい! お金ならいくらでも払う! だからその狂った時計を私に近づけないで!!」
……ちょっと、嘘でしょ。 あの、どんな呪いのワラ人形でもミイラでも涼しい顔で買い取ってたマダム・ローザが、お金を払うから持って帰れって!?
アタシはテーブルの上の時計と、パニックになってるローザを交互に見比べたわ。 ビニール袋の中の真鍮の時計は、心なしか「ほら見なさい、アタシの価値がわかった?」と言わんばかりに、またチクタクと生意気な音を立てていたのよ。
「……ちょっと、マジで言ってるの? アタシのウナギ、どうしてくれんのよ!!」 西麻布の地下室に、アタシの絶望の叫びが木霊したわ。最悪よ、本当に最悪の月曜日なんだから!
「お金払うって言ったわね? なら、その言葉に二言はないわよね!」
アタシはローザが震える手で差し出した分厚い封筒(ざっと三十万円ってところかしら。ウナギ特上十人前と帰りのタクシー代にはなるわね)と、憎き時計の入ったスーパーの袋をひっつかんで、西麻布の地下から階段を駆け上がったわ。もう息切れで死にそうよ。
「シゲさん! 出すわよ! 次の引き取り手探すわよ!」
息巻いて路地裏に出たアタシの目に飛び込んできたのは、ピカピカの黒塗りの高級SUVに前後をキッチリ挟まれて、完全に身動きが取れなくなった泥だらけの軽トラと、運転席で涙目で震えるシゲさんの姿だったわ。
そして軽トラの周りを囲んでるのは、真夏だってのに真っ黒のスーツに黒のサングラスでキメた、屈強な男たち。マトリックスのコスプレ会場じゃないんだから。
「ちょっと、すいません。ウチの運転手がいじめられてるみたいなんですけど? そこ、アタシの車なんで退いてくれる?」
アタシがドスを効かせて近づくと、スーツの男たちが一斉にこっちを向いたわ。無表情で、ピクリともしないの。首の動きが完全にロボットみたいで、気味悪いったらありゃしない。
『……ソレヲ、渡セ……』
男の一人が、カーナビの音声案内みたいな抑揚のない声で、アタシの持ってるスーパーの袋を指差したのよ。 ははん、なるほどね。あのマダム・ローザすらビビり散らかす「特異点」の匂いを嗅ぎつけてやってきた、ヤバい組織の手先ってわけね。
『時間ノ支配権ハ、我々ノモノダ……』 「時間の支配? バカ言ってんじゃないわよ!」
アタシはスーパーの袋をハンマー投げみたいにぶん回して、一番近くに立ってた男の顔面に思いっきりフルスイングしてやったわ!
ガゴォォォン!!
ものすごい鈍い音と共に、スーツの男が吹っ飛んで、高級SUVのボンネットにめり込んだわ。そりゃそうよ、この真鍮の時計、漬物石みたいに重いんだから! 呪いのアイテムだろうが何だろうが、物理攻撃の破壊力は抜群なのよ!
「アタシが今一番支配したいのはね、この空っぽの胃袋と、ウナギ屋の予約時間なのよ!! アンタたちみたいな中二病こじらせた黒服に構ってる暇はないの!」
アタシは唖然としてる(サングラスで見えないけど絶対唖然としてるわ)黒服たちを、相撲の立ち合いみたいな体当たりで突き飛ばして、軽トラの助手席に無理やり巨体をねじ込んだわ。
「シゲさん! 轢かない程度にアクセル全開! 強行突破するわよ!」 「ひええええええええ! オラの車がぁぁぁ!」
シゲさんが半泣きでアクセルを踏み込むと、軽トラは悲鳴みたいなエンジン音を上げて、高級SUVのバンパーをガリガリ削りながら路地裏を強引に飛び出したわ。賠償金? ローザからもらった三十万で足りるかしらね!
「おねえぢゃん! 後ろ、後ろ!!」 シゲさんがバックミラーを見て絶叫したわ。
アタシが窓から顔を出して後ろを見ると、さっきの黒服たちが無表情のまま、車道をごぼう抜きにしながら猛ダッシュで追いかけてくるじゃないの! 人間の足の動きじゃないわよ、あれ! ウサイン・ボルトだってあんな速く走れないわよ!
「ちょっと、アイツら絶対サイボーグか何かよ! ターミネーターよ! シゲさん、もっと飛ばしなさい! 港区から脱出よ!」
ドスドスと迫りくる黒服軍団。手の中でチクタクと生意気に時を刻み続ける時計。そして、グゥゥ〜ッと情けなく鳴り響くアタシの胃袋。
ホント、どうしてアタシの平日のランチタイムが、ハリウッドのアクション映画みたいになってんのよ! 絶対に、何が何でもウナギ食べてやるんだから!! アタシの食い意地を舐めるんじゃないわよ!!
「シゲさん、右! 次の角を左よ! あーもう、東京の道はゴチャゴチャしてて本当に腹が立つわね!」
麻布十番の細い裏通りを、茨城ナンバーの軽トラがエンジンを悲鳴のように唸らせて爆走していくわ。荷台には魚のウロコが散乱してるし、アタシの巨体でサスペンションは完全に死んでるし、もうパニック映画のクライマックスよ。
「おねえぢゃん! 後ろのヤツら、車に追いついてきたべ! 荷台にへばりついてるダ!」 シゲさんがバックミラーを見て、この世の終わりみたいな顔で叫んだわ。
「はあ!? 人間の足で軽トラに追いつくって、どんだけふくらはぎの筋力仕上がってんのよ!」
アタシが窓から顔を出すと、真っ黒いサングラスの男が二人、ターミネーターも青ざめるような無表情で軽トラの荷台のフチをガッシリ掴んでたわ。しかも、その腕からジジジ……って機械の駆動音みたいなのが聞こえるのよ。やっぱり中身サイボーグじゃないの!
「ちょっとアンタたち! しつこい男はキャバクラでも真っ先に嫌われるわよ! アタシのウナギへの熱意を邪魔するんじゃないわよ!」
アタシは荷台に向かって怒鳴ったけど、サイボーグどもは全く意に介さず、荷台をよじ登ってアタシの助手席の窓へ手を伸ばしてきたわ。
「おねえぢゃん、前! 行き止まりだべ!!」
シゲさんの絶叫と同時に、軽トラは急ブレーキ。キキィィィッ!とタイヤを焦がして、レンガ造りの高い壁の真ん前でスレスレに停まったわ。 ああもう、万事休すじゃないの!
荷台に乗っていた二人の黒服が、ゆらりと降り立ち、アタシの座る助手席のドアを力任せにガァァン!と引き剥がしたわ。車のドアを素手で!? 弁償しなさいよ!
『……逃走経路ハ、無イ。ソノ特異点ヲ、渡セ。我々ノ主ニ、献上スル……』
「主だか何だか知らないけどねぇ……」 アタシはスーパーの袋から、あの憎たらしい真鍮の時計を引っ張り出したわ。チクタク、チクタクって、相変わらず呑気に時を刻んでるのよ。
「アンタたち、これがそんなに欲しいのね?」
『肯定スル。渡セ』 黒服が機械的な腕をアタシに伸ばしてきたわ。
「……だったら、くれてやるわよ!! その代わり、テメェらの時間で精算しなさい!!」
アタシは黒服の冷たい金属の腕をガシッと掴むと、その上に真鍮の時計を押し当てて、リューズを親指で思いっきり、限界まで「カリカリカリッ!!」と連続で巻き上げてやったわ!
チク、タク、チク、タク、チク、タク!!
その瞬間よ。 時計が時間を逆行させるために必要な莫大なエネルギーを、アタシの体温じゃなくて、接触している「黒服のサイボーグの動力源」から強制的に吸い上げ始めたのよ!
『……!? 警告、警告。コア温度、急激ニ低下。熱力学エラー、エラ、エ……』
黒服の男の体から、猛烈な勢いで霜が吹き出したわ。 カチカチに凍りつきながら、時計の逆行パワーをモロに食らったそいつの体は、スーツが新品の布に戻り、皮膚のシリコンが溶け、中の金属パーツが「工場で組み立てられる前の部品」へとバラバラに分解されていくじゃないの!
ものの数秒で、アタシの目の前にいた屈強な黒服は、カッチコチに凍りついた大量のネジとギアと、ただの鉄くずの山になっちゃったわ。
「あら。ずいぶんエコな冷却装置ね。解体工事もタダで済むなんて便利じゃないの」
アタシが鼻で笑って見せると、もう一人の黒服が、足元の鉄くずとアタシの手の中の時計を見て、ピタッと動きを止めたわ。
『……脅威レベル、測定不能。ミッションを中断。撤退スル』 そいつはクルッと背を向けると、来た道をオリンピック選手も真っ青の猛烈なダッシュで走り去っていったわ。チッ、逃げ足だけは速いんだから。
「ハァ、ハァ……終わっただか……?」 シゲさんが、ハンドルに突っ伏して白目を剥きかけてたわ。
「終わったわよ! アタシの特大の機転と、この呪いのガラクタの物理・化学コンボのおかげでね!」
アタシはすっかり霜まみれになった時計を、もう一度タオルに包んでスーパーの袋に突っ込んだわ。どうやら、直接触らなければ他人の熱を奪って巻き戻すこともできるみたいね。使い方次第じゃ、最強の護身用冷凍兵器じゃないの。絶対に使いたくないけど。
「さあ、シゲさん! 邪魔者は消えたわ! 予約の時間まであと十五分よ! すぐそこの麻布十番の商店街に、老舗のウナギ屋があるのよ! 車出して!!」
「ドアが無いのに走るだか!?」 「ガタガタ言わない! 風通しが良くて最高じゃないの!」
ドアをもぎ取られたボロボロの軽トラは、春の生ぬるい風を車内にビュンビュン吹き込ませながら、アタシの執念と食欲を乗せて、ウナギのタレの匂いが漂う約束の地へと向かって走り出したわ。 待ってなさいよ特上ウナギ。アタシのこの波乱万丈な午前中のすべてを、アンタのそのふっくらした身と山椒の香りで癒してもらうんだからね!
麻布十番の石畳の通りに、ドア無し・魚のウロコまみれ・茨城ナンバーの軽トラが、キキィィィッ!と派手な摩擦音を立てて停まったわ。
目の前には、打ち水がされた風情ある店構え。老舗の鰻割烹『登川』よ! 暖簾の前に立ってた着物姿の仲居さんが、アタシたちを見て完全に石化してたわね。そりゃそうよ、世紀末のヒャッハー映画みたいなボロボロの車から、泥だらけの巨女と、白目剥きかけの漁師のおっちゃんが降りてきたんだから。
「ちょっと、何突っ立ってんのよ! 11時半に予約したアタシよ! 泥は入り口で極力落とすから、さっさと奥の座敷に案内しなさい!」
アタシはマダム・ローザからむしり取った三十万円入りの封筒を、水戸黄門の印籠みたいにドーンと突きつけてやったわ。現金(リアルマネー)の力って偉大ね。仲居さん、ハッとして「い、いらっしゃいませぇ!」って最敬礼したわよ。
通されたのは、中庭が見える立派な個室。 アタシとシゲさんは、泥だらけの服を気にしつつも座布団にどっかり座ったわ。
「お、おねえぢゃん……オラ、こんな立派な店、入ったことねえべ……それに、あの黒服のバケモノたち、本当に追ってこねえだか?」 「心配ないわよ。アイツら、車のドアは素手でもげても、領収書が切れない高級店には入れないシステムなのよ、きっと」 適当なウソをついてシゲさんを黙らせると、ついに、ついに……!
「お待たせいたしました。特上うな重でございます」
パカッ。 お重の蓋を開けた瞬間、パァァァッ……!と黄金色の後光が差したわ(アタシの目にはね)。 備長炭で香ばしく焼き上げられた、ふっくらとした肉厚のウナギ! 秘伝のタレがツヤツヤと輝いて、白いご飯に染み込んでいる……! ああ、この匂いだけでご飯三杯はイケるわ!
「いただきます!!」 アタシは山椒をブワァッと気前よく振りかけると、お箸で大きく切り取って、大口を開けて放り込んだわ。
……ッ!! 「んんんん〜〜〜〜ッ!! 美味しいわぁぁぁ!!」
フワッフワの身が口の中でとろけて、甘辛いタレと炭火の香ばしさが脳髄を突き抜けるのよ! さっきまでのサイボーグとの死闘も、時間逆行の恐怖も、全部この一口で浄化されていくわ! カロリーは正義! 炭水化物は地球を救うのよ!
「う、うめえ……! なんだべこのウナギ、霞ヶ浦で釣れるナマズとは大違いだべ……!」 向かいの席で、シゲさんがボロボロ涙をこぼしながらうな重を掻き込んでるわ。命の危機を乗り越えた後のメシは格別でしょうね。
でも、その平和な時間は、長くは続かなかったの。
チク、タク、チク、タク……。
座卓の隅に置いてあった、あのスーパーのビニール袋。 その中から、またあの忌まわしい駆動音が聞こえ始めたのよ。
「……ちょっと」 アタシは箸をピタッと止めたわ。
見ると、ビニール袋の周りの空気が、不自然に冷え始めている。 そして……信じられないことに、アタシのお重の中のウナギから立ち上っていたホカホカの湯気が、逆再生みたいにウナギの中にスゥーッと戻っていき、表面の焦げ目がスルスルと薄くなり始めたのよ!
「こ、こいつ……!」 アタシは完全にブチギレたわ。
このバカ時計、アタシの熱々のウナギの熱(エネルギー)を吸い取って、時間を巻き戻そうとしてるのよ! つまり、この最高の「蒲焼き」を、ただの「生のウナギ」に逆再生させようって魂胆なのよ!!
「ふざけるんじゃないわよォォォォ!!」
アタシは怒りの咆哮と共に立ち上がり、座卓の上のビニール袋をひっつかんだわ。 「過去の失敗を消すのは百歩譲って許すわ! サイボーグをバラバラにするのも役に立ったわ! でもね……!! アタシの目の前で、完璧に焼き上がった特上ウナギを『生』に戻すことだけは、万死に値するのよ!! アタシの食い物の恨みを舐めるんじゃないわよ!!」
アタシは中庭に面した障子をバーン!と開け放つと、庭の中心にあった立派な「ししおどし」の冷たい水盆に向かって、そのビニール袋を親の仇みたいに全力で叩き込んだわ!
バシャァァァン!!
水盆の冷水に浸かった瞬間、時計はジュワァァッ!と音を立てて、ピタリと動きを止めたわ。どうやら、熱を奪う対象が最初から冷たい水になったことで、急激な温度変化のバグを起こしてフリーズしたみたいね。ざまあみなさい!
「ハァ、ハァ、ハァ……」 息を切らして座布団に戻ったアタシは、焦げ目が無事に残っているウナギを見て、ホッと胸を撫で下ろしたわ。
「……おねえぢゃん、今のなんだっただか?」 「気にしないで、シゲさん。ただのちょっとした『例外処理(エラー)』よ。さあ、冷めないうちに食べちゃいましょう!」
アタシは再び満面の笑みで、うな重にガッついたわ。 もう誰にも、何にも、アタシのこの至福の「現在(いま)」を邪魔させはしないんだから。霞ヶ浦の特異点だか何だか知らないけど、アタシの胃袋のブラックホールには勝てないのよ。
本当に、とんでもなく長くて、最高に美味しい月曜日のランチタイムだったわ!
お姉博士談
まあ、とんでもない一日だったわね!茨城県の霞ヶ浦から軽トラで爆走して、西麻布で魔女に会い、サイボーグを凍らせて、最後は麻布十番でウナギを死守。アンタ、その図体だけじゃなくて「食い意地」も規格外の特級呪物レベルじゃないの。
でもね、アンタの言う通りよ。「過去をやり直すために今を犠牲にする」なんて、そんな不毛な取引に応じるほどアタシたちは安くないわよね。熱力学の法則を逆手に取って、体温の代わりにサイボーグの動力源を吸わせるなんて、物理学者もひっくり返るような荒業だけど、食欲がかかった時のアンタの回転の速さには脱帽よ。
結局、その真鍮の時計はウナギ屋の中庭の「ししおどし」で冷やされて大人しくなったみたいだけど……。アンタが「今」という時間をこれほどまでに力強く、そして「美味しく」肯定しているのを見て、ちょっと安心したわ。
熱力学の基本、エントロピー増大の法則(第2法則)は「時間は一方通行で、乱雑さは増える一方」って教えてるけど、アンタはその「乱雑さ」すらも「人生の味」としてナポリタンと一緒に胃袋に収めちゃったわけね。
さて、特上ウナギも平らげてお腹もパンパンでしょうけど、最後に一つだけ聞かせて。
その「ししおどし」に沈めた時計、そのまま置いてきたわけじゃないわよね? もしあの時計がまた誰かの手に渡って、アンタのウナギ・タイムを邪魔しに「逆再生」で戻ってきたら……次は一体、何をエネルギーとして差し出させるつもり?
(終)
